ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

カウンセリングを超える面談法

ライフストレス相談としての面談法が、従来のカウンセリングの限界を超える可能性があるかどうかを検討しているところだ。

従来のカウンセリングの限界だと私が思っているのは次のような問題だ。

主体性の項目について考察すると、面談のなかで、関心、観察、理解という取り入れプロセスが、相手に語るということで整理され、さらには、自信、自主、意味という安定化プロセスが進み、その流れのなかで、対人関係で他者への信頼、そして貢献が進み、希望をもって進むことができるように、相手の生命、生活、人生という三つの次元での出来事や登場人物について語ってもらう。

従来、このような変化を「行動変容」としてとらえていたが、どうしても、問題解決の色彩が強くなり、カウンセリングで問題が解決するというような印象を与えてきたように思う。

しかし、実際には、仮に問題が解決しても、主体性のプロセスは進展していない場合もあり、問題が解決しなくても主体性のプロセスが進んでいる場合もある。

だから、「症状に対して行わない」とか「問題解決だけを目指さない」という意味は、その陰で、主体性というテーマが埋没しないようにするという意味だろう。

では、このような主体性の進展を自分自身で行う場合と、面談のなかで行う場合の違いとは何だろうか。

それは、出来事のとらえ方、反応、行動化などについて、すでにワンパターンの固定化が起きていている場合には、想起する際のゆがみ、評価のゆがみなどによって、特定の観方以外ができなくなっている。

むしろ、過去を思い出し、未来を予測する取り組みは、空想的なものとなり、思い込みを強めるだけになる場合がある。

それに対して、面談での「質問」や共感的な態度により、歪みのない、生きたとらえ方へと進むことのできる可能性が出てくる。記憶の分析というよりは、対話のなかでの、今、ここでの感じ方、気づきを重視するという意味では、「瞑想的」といってもいいかもしれない。

ところが、このような取り組みを邪魔するのが、自分自身の心を分析して、問題を生み出している原因を探りだそうという「解釈」「理論化」であり、面談のなかで、延々とそれを語り続けた場合には、援助者は、その方の生きた生活ではなくて、理論を聴かされることになる。

そして、その理論の枠で対話が進んでいき、本人が原因と突き止めたつもりのことについて、どうしたらそれを変えられるかという問いに巻き込まれていく。

このような事態は、カウンセリングでは想定されていなかったと思うのだが、心理学的な知識の普及により、自分の心を表現することと、自分の心を理論的に解説することが混同されるようになった。

前者についていえば、出来事や他者について語ることが自分の心について語っていることになるし、生命、生活、人生に属する様々な話は、それを創造している自分のことになる。

しかし、後者については、この物質世界を固定し、出来事も固定し、他者の人格やねらいも固定化して、自分の心とはそれらをどのように受け止めて、何を求めて、どのように喜び、苦しんでいるかという一種の「反応」のシステムだとされている。

ライフストレス面談では、相手を知るために様々な日常について語ってもらっていることが、後者の心理学的解釈の枠での面談では、それらには興味がなく、自分の心としての内省、内観の記憶を私小説のように、しかも、理論を借りて、文章化したものになっている。

そのような解釈、原因と結果の仮説を語れば語るほど、本物の心は動きをとめて、枯れていく。

そして、援助者も、その解釈と仮説のなかに飲み込まれて、この心理学的物語、私小説的物語のまわりを無益にまわるだけになる。

こうして、整理すると、この世界内に、これが自分だという固定化、領有化をしたいという自我の働きが、身体、金銭、財産といったものだけではなくて、無形の「精神」のなかに固定化した「自分」を作り出して保全しようとする際に、心理学の理論が利用されたものだと考える。

この自分の心は、過去の〇〇の体験からこうなった、という積み重ねをすることで、本当は虚として点であったものが、面として実体を見せてくる。

生き辛く、苦しく、寂しく、惨めであっても、それが「自分」であり、そうなるには、理由があり、体験があり、そこに根をはった実体だというのだ。

だから、自分を消し去り、失うことができないので、自分を変えないようにエネルギーを使っている。

その場合の面談は、その辛さを本当に分かってほしいということになり、本当にわかっているか、分からなかったかが重要になるが、他者が同じように感じることはできないので、分かってもらえなかったという失望におわる。

どうして、そこまで分かってほしいかというと、この心理学的仮説・解釈を自分だと思っているのだが、それは主観にすぎず、他者から認められることで本当の実体になると思い込んでいる。

そうでないと、そこまで他者に分かってもらうことが重要だという説明がつかない。

他者が親切、思いやり、愛情をかけても、それは、自分が求めているものではない、むしろ、傷ついた。ほんとうに自分のことがわからないからそうなるのだと反発する。

つまり、関わりのなかで、自分が大切にしている心、解釈、心理学的自分が認められていないという苦悩なのである。

このような世界が、冒頭にのべた主体性の進展とはまったく異なることは明白だろう。

自分とは主体的に表現していくもので、因果関係で規定した固定したものではない。

新しい面談では、このような自我の領域化に利用された心理学的仮説を乗り越えたいのだ。