ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

分断・領有化の世界の相克

自分を正当化して、他者を批判して、自分が被害者であると考えているときには、主体性が低下して、自我の防衛状態になっている。

この自我は、このような状態をさらに正当化したいので、対話の動機は自分を開くことではなくて、自分を固くして、正当化することを手伝ってほしいのだ。

だから、相談者は、援助者に対して、自分が悪くもないのに、被害を受けていること、苦しんでいること、救われないといけないこと、本当は自分が正しいことを認めてもらおうとする。

ここでの主体性は、自分の思いを語るということだろうか、語れなかったのが、援助者を「信頼」して「言葉」をつかって、表現して、仮初めでも「自信」を取り戻していくということ、面談への「希望」をもち、意味を見出しているところなど、主体性は動いてはいる。

しかし、このままでは、この他者を加害者として、自分を被害者として、無力感に陥っている状態、他者のおもわくに踊らされて、自分がさらに苦しむのではないかという恐怖から、抜け出すことはできない。

バランスセラピーでは、自己統合の進歩を阻むものとして、「自分の意見を自分自身のものと錯覚する」「自己防衛の強い心と他人によく見られたいとする心」「過ぎたことを後悔する心」「誤りを正当化する心」「自我の機械的な反応に気付かない心」「筋バランスの乱れ」とまとめてあるのは、的確である。

筋バランスの乱れに象徴されているのは、呼吸、感覚、行動、言葉、食事、睡眠、運動、資源活用という身体的な主体性の項目と、精神的な主体性の項目の歪みを示している。

ここで、このような自我を強くした状態に陥っているときに、どのようにして自己統合の状態へと戻っていけるのか。

筋バランスの改善や身体的な主体性の項目に働き掛けるのも重要ではあるが、精神的な取り組みとしてはどうなのか。

自己が統合された状態をひとつの丸だとすると、自我を強くした状態は、自分の領域を城壁で囲んで、その周囲には、「味方」もいるが「敵」もいる。

つまり「分断状態」で、丸はたくさんのかけらになっている。

自我を強くした状態とは、最初のきっかけでは、相手の言動に触れているうちに、「相手がすでに分断状態であって、つまり、自分と敵と味方というような区分のなかにあるので、それに巻き込まれて、自分が味方にされて協力を強要されたり、敵と戦うように仕向けられたり、逆に、敵にされて攻撃されたりする世界に巻き込まれたのだ。

こうなると、自分もまた保護的になって、城壁を築いて自分の領域を守り、敵を倒し、味方を助けようとしたり、城に閉じこもって隠れようとする、あるいはどこかに逃げようとする。

自我を強めた状態の悩みとは、このような分断・領有化における相克のことである。

ここから抜け出すには、本来はバラバラではなくて、自分の世界はまとまりのある一つであったということを思い出すことだ。

そして、相手の心を予測して、自分の反応を引き出して、さらに先のことを心配しているとこの状態に陥ってしまう。

繰り返しになるが、この分断によって、自我が固定化した領有化として成立しているが、そのためには、自分以外の他者もまた固定化した領有化をはかっていると思うのだ。

だから、きっかけとしては、「相手が自我を強くして、自分本位に、頑固に、こちらのことも考えずに、無理を言ってくる」という見方が上記の混乱を生んだのだ。

背景を塗りつぶして、真ん中の絵を浮かび上がらせるように、他者の自我を糾弾しているつもりで、自分の自我を強めて領有化して、恐怖、不安、怒り、闘争、逃走、防衛の状態に至るのだ。

だから、この場合の他者は本来自分の世界の一部であり、自分の姿でもあったのに、それを他者の自我として固定化、過激化したために、このような事態に至るのだ。

だから、手放すのは、この「他者」の自我性への確信である。

相手はああだ、こうだ、だから私は・・というなかで、「本当に相手がどう考えているかは私にはわからない」「すべて私が感じた相手の姿や思いであり、それは私がつくったものだ」「今、見えている相手は本当はいなくて、私の表現である」

すべては、不可知の世界、精神の故郷に在る私が生み出したものであって、一つである。

ただ、自我を強めたために、分断・領有化の世界として見えただけであり、それは実体ではない。

そして、自我を弱めて、主体性を進展させていけば、自我さえも乗り越えて開くことができるが、そのときの世界はまた別の姿を見せる。

つまり、自我で苦しんでいる世界も、自己を統合して静寂を得た世界も、同じものであって、異なった姿を見せているだけである。

このような考え方と見方の訓練をしていくことである。