他者の自我性を観ない
自分が世界を分割して、他者と自分という区分をつくり、自分の領有化、城壁化によって、対立、不平不満、争い、逃避、引きこもりなどが起きるのだと書いた。
つまり、自ら「自我」を強めたという自覚がしにくく、他者の自我・領有化の世界を強く意識するところから、自分の防衛的な傾向が強まり、自我が活性化する。
他者をどのように見るか、「観察」の在り方がポイントであることがわかる。
しかし、同時に、「理解」のあり方でもあり、
そして、それを安定化する、自信、自主、意味の世界の問題でもある。
つまり、他者の言動をうまく安定化できずに、相手の自我性を強く感じることで、さらに自分が不安定になる。
このような悪循環を断ち切るには、相手の個別性、相手の自我性を観る癖から離れることである。
ところが、相手が、このような自我性、領有化の世界にあると思っているので、こちらも巻き込まれる。
ここで思い出してほしいのは、相手も不可知の世界、精神の故郷にあって、相手なりの世界を生み出している存在であるということだ。
その世界が、自我による分断領有化の世界なのか、統合された世界なのかは、相手は知りうるものだが、こちらにはわからない。
相手を自我を強めているとみているのは、こちらの世界でのことだ。
相手の世界は、平行世界のように重なっているはずだが、こちらには見えない。
徹頭徹尾、相手の姿が自分の世界の姿であることを忘れないことだ。
相手という個体のなかに、相手の心をみて、それに相対する自分の心を想定するから、統合の世界が崩れていく。
私は、この世界を愛しているがゆえに、相手を愛しているというスタンス。
このような歪みは、相手の「心」を予測するという取り組みから始まっている。
そのような相手の心が、対する私の心を生み出している。
ここで想定する相手の心の貧弱なこと。文章として書いてみると自我の機械的反応のことだとわかる。だから、こちらの自我の機械的な反応を引き出すのだ。
自分の世界は自分の精神としていくらでも豊かにすることはできるが、本当は相手の世界もそのようなものであるはずなのに、そうは思えない。
道具的、機械的な、相手の行動予測のための、簡易的な推論モデルが、心をよむ機能である。
簡単なことには使えるが、本当のことには役立たない。
自我の機能、欲求の仕組みを想定した原始的なモニター機器であって、邪魔になることもあるのだ。
あたった、はずれたと、ゲームのように不確かなものとして扱うほうがよい。
他者の自我性に反応して、このモニター機器が動き出したときに、自分が愚かにも、ゲーム的な反応を見せるようになるということだ。
他者を原始的なモニターで評価した姿をもって、それをまねして、自分を構成しているようなものだと思う。自我を観る機器だから自我が見える。
このモニター機器のスイッチを切ることだ。
おもちゃのようなものだと、本気にしないことだ。
どうして、こんなやっかいなものを後生大事に、私たちは使っているのか。
子どものころに、大人が何を考えているのか、分からずに、怒っている、喜んでいると単純に見ていたように、このモニター機器は、その後、成長のなかで精度をあげたといっても、しょせん、その程度のものである。
そして、そもそも、他者の心を読むということに熱中しないことだ。自分の中からあふれてくる思いが重要だと書いてきた。
この世界を愛して、自分なりに貢献していく手段として、できることをすればよい。それを他者がどう思うかは他者の自由である。
後出しじゃんけんのように、他者の出すものを予想して、自分が出すものを決めようとしても、それほどモニターが優れているものでもない。だから、読み合いのなかで、疑心暗鬼になって、さらにモニターを使おうとする。
他者を思いやること、他者を信じること、他者に役立とうとすることは、この世界への貢献として取り組むことだが、他者の心を読むことにどのような意味があるのか。