他者の心の扱い方
他者の心を観るときに、そこに自我性を観ると、こちらも自我性を強めるということを書いた。
だから、観察のありようが、重要だと思う。
自我とは、本当は点として位置はあるが、面積としての実体はないものを、これが私だというふうに領有化をすすめて、固定化していく作用だと書いた。
つまり、「実体化」作用である。
その意味で、他者の心に自我性をみるとは、他者の心を実体化してみるということだ。
他者の言動を観察していくとそこに、なぜ、そのような行動をするかという動機を観ることになり、次の行動を予測するという原始的なシステムが稼働する。三歳児、チンパンジーには、この「心の理論」といわれる機能があるらしい。
それを成長過程の経験や心理学的知識で補強しながら磨いたとしても、それで分かるのは、行動の動機的なものの推論にすぎない。
これを、「私は相手の言動から相手の心がこうであると思った」というふうに自覚してくれれば、これは結局、自分の推論であり、思いであるということになるが、これを実体化して、本当の「相手の心」だと思うと、それが自我性を強めていくことになる。
〇〇だと私は考えた、それは事実だとは限らないという姿勢で、対話や観察によって、再解釈を重ねていくことが大事であって、それも「相手の心の実体」に迫っているのではなくて、より調和性のある「とらえ方」を自分がしていくという意味である。
他者の心を知りえないという意味は、それぞれが脳のなかの演算として、他者のプログラムを知りえないという意味ではなくて、すべてが自分の心であり、他者の心としてみえるものも、自分の表現であるという意味である。
他者の世界は、平行世界のように重なっているはずだが、私はきっとそこでは登場人物の一人として動いてはいるが、その世界全体がどのようなものかは知りえない。
この「心」を知るという言葉と、「世界」を知るという言葉の違いをかみしめてみたい。
所詮、他者の心を知りたいという思い自体が、自我が見せてくる願望である。
まずは、相手の心を実体とするのではなくて、自分が見ているという姿勢に立ってみよう。