ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

社会性問題への取り組み

現代社会は、人間が「個人」として切り出されている時代だ。

種としてのヒトは、集団をなして生存をするという意味で、本能的に「社会性」が埋め込まれている。

したがって、人間という呼び名も、人と人の間の関わりとしての存在を示しているが、同時に「個人」を示すという二つの意味を重ねている。

個体としての自己保存の本能と、社会性つまり、集団の保存のために自分の役割を果たそうとする本能の合成として、人間存在のスタートがある。

歴史のなかで、集団のために自分を犠牲にする行為をみるときに、現代人は理不尽なこととして憤るが、その時代にあっては当たり前のこととしてなされていたのだと思う。

余談になるが、歴史ドラマなどでは、個人を切りだした現代社会に合うように修正されているはずで、当時の感覚でつくれば、共感を呼ぶものにはならないだろう。

この個人の切り出しには、経済的側面、心理的側面、社会制度的側面がからまって進んでいくので、詳細にここで述べることは難しいが、都市の成立によって、地縁社会から切り出された者が、ある意味「自由」になり、ある意味「根無し草」のように属する集団を失ったところから考察してもよいだろう。

経済的にも相互扶助的に地域で支え合っていたものが、家族内になり、さらには、個人になっていくという単位の分解が進んでいき、市場経済の一員としての「個人」がうまれ、欲求を満たすために消費し、そのお金を得るために生産に従事するということになり、法的、制度的にも、個人の権利を保護するようになり、心理的にも「自我」をたてた人間観によって自他が人間理解をするようになった。

この流れは、本能的に埋め込まれている集団性・社会性を乗り越えて、個人として生きようとする新しいヒトの出現といってもいいだろう。

たとえば、アリやハチが、自分の考えで群れから離れて生きようとする姿を想像してみればよい。ありえないことに挑んでいるようにも思えてくる。

しかし、ここには仕掛けがあって、自然環境のなかに、個人としてはいっていくのではなくて、人工的な巨大な生存環境をつくって、そのなかで、個人として生きるということだ。

だから、大災害などで、文明的な生活環境が破壊されると、ヒトは、人間として集団を形成して生き延びようとする。

このように話していくと、「いや、人間の社会性は変わらない。集団が巨大になっただけではないか」と反論されるかもしれない。

しかし、今の私たちが、この国の存続のために、この地域社会の存続のために、この職場の存続のためにと、自己保存の欲求をおさえて、犠牲を払い、役立とうという欲求で動いているだろうか。

かりにそうであれば、現代社会のストレスはこれほど過大にはなっていない。かつて、貧しい時代に家のため、会社のために、国のためにと、どれほど先人が犠牲を払ってきたことか。

これは、利他行為のことを言っているのではない。集団の存続と発展が自己保存と一体であったという意味だ。功利的ではあるが、そこに集団存続への指向性があったということだ。

日本でも、終身雇用制がくずれ、転職を前提として労働市場が流動化したなかで、好条件の職場を探すことはなされていても、この会社と自分の運命を同一化して頑張るという意識はほとんど消え去ったように思える。

懐古趣味で語っているのではなくて、「個人」が社会から切り出されていることを述べただけだ。これがヒトとしての退化なのか、進化なのか、それは時を経てみないと分からない。

私は、この記事の論点は、最後は「家族」の問題にいきつくと考えている。

個として切り出された者がつくる「家庭」とはどのようなものになるのか。以前とどこが異なっているのか。そして、そこで育つ人間が従来の人間とどのように異なっているのか。

現代社会でのストレス問題、家庭内のトラブル、生育期の問題は、このような社会性を失って、個として切り出された人間がどのように生きればよいかの迷いのなかから生まれているように思う。

従来の「家庭」は「家」という実体があった。家のためにそれぞれが何をすればよいのか。家訓、祖先への敬意、子育ては家のため、家の名誉、地域と家というふうに、個人は家の部分として機能していた。

相続についても、家を存続させるためのものであったが、現代では、個人に分配していくことで、経済的な社会的な意味での「家」の連続、系統は続かないようになっている。

この時代にあっては、祖霊の供養、墓守りについても、家の精神の骨格となされず、ただ形式的なものとなって、個人のたしなみということか。

それでも、「いや、現代でも、家族には実体がある。そこには、かつてのような古い価値観による圧迫がなくなり、純粋な思いやりや愛情があるアットホームが見られるではないか」と反論があるだろう。

それこそが、新しい実験的な家庭だとここでは述べている。家族のメンバーは自分たちそれぞれ個人をこえた「家」というものを意識して、それにむけて役割を果たしているかというと、そうではなくて、各自の「心」があって、それが調和的につながっているという主張なのだ。

祖先という概念も希薄になって、石塔業の知人から聞いたが、自分が知っている祖父母までは供養したいという気持ちがあるが、それ以前の祖先についてはどうでもよいと考えている方が多いらしい。

自分があって、ごく近い人間として家族があるという感覚であって、連綿と続いてきた「家」という観念はない。地域にむけて「家」として付き合っているという感覚もない。

これは進化かもしれず、退化かもしれないと書いたが、進化とは、生物学的な定義では、子孫が多数残って続いていくかということになるし、社会学的には「家の文化」が伝わっていけばよいのかもしれないが、評価は難しい。

自分たちの子どもという考え方と、この家の子どもという考え方の違い。

お互いが認め合った夫婦という考え方と、家を守り続けるために一緒になった夫婦という考え方の違い。

現代は、この両者が混在しているゆえにトラブルがあるように考えている。ここに、整理が必要だと思うのだ。

それから、現代社会で、集団として実体があるのは「法人」である。今や、政治も個人の存続ではなくて、法人の存続のために動いている。社員は、入れ替わって、社長もかわっても、法人は存続していく。

そう考えると、この資本主義、市場経済における「集団」とは、法人であるようにも思えてくる。しかし、個人は精神的には、社会性を弱めているがゆえに、自己保存との間に葛藤を生じさせる。

さらには、「家庭」「地域」「国家」は、この時代にあって、どのように変質したのだろうか。そのことを考察していく必要を感じている。