ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

家族へ夢見ること

ドラマや映画でも「家族」の愛について扱ったものが感動を呼びますが、そこに現代人の願望を観ることができます。

夫婦愛、親子愛、祖父母の孫への愛、家族としての動物への愛。

どうして、こうも私たちは「愛」について考えて、求め続けるのでしょうか。

すでに現代は、集団から「個」を切り出している段階だということを書きました。

アリやハチのような社会性生物がその使命を捨てて、個として生きることは本能からの離脱として奇跡のように思えますが、人間は、巨大な人工的生存環境をつくってしまうことで、ある程度、安全で予測可能な世界を成立させました。

それによって、個人として生きていくことが可能となったのです。そうなると、「集団の存続。発展を図るのだ。それがひいては個人や子孫の生存につながる」という意識が希薄になります。

むしろ、自分の気持ちより、集団のことを優先するように言われると「圧力」だと感じるようになります。

そして、家庭もまた、変質して、「個人が集まったもの」とされました。

たしかに、夫、妻、子という立場の違いがありますが、それらが「家」の存続のために役割を果たすのではなくて、それぞれが価値ある人生を送るための「同盟者」のようになったのです。

夫は、家庭に何を求めているのでしょうか。

妻は、家庭に何を求めているのでしょうか。

子は、家庭に何を求めているのでしょうか。

今の家族問題とは「家庭」という実体はなくて、そこにはメンバーがいるだけなのに、それぞれが「家庭」に何かを求めていて、誰かの望みが叶うことは、誰かの望みが叶わなくなるというトレードオフの状況が出現したり、何かを手に入れるための副作用として生じたことがほかのメンバーの願いを砕くことになるのです。

ここでは、問題がどのようにしておきるかを詳細には述べませんが、一つの例として、「仲良し家族」を子どもが幼いときにつくったとします。そのときには、子どもに何かをしてあげて喜ぶ顔を観たいという親、子どもへの世話を通じて夫婦の共通の思いを深めたいということ、そして子どもは自分のやりたいことを親から応援してもらえる喜びということで、そこでは「調和的」だったとします。

しかし、メンバーの集合が家族なので、子どもが成長して自立したいとか、家族よりも友人を大事にしたいとか、親の望まないことをしたくなったとか、変化があると、この「仲良し家族」を維持するという目標は、ひずみを生んできます。

同様に、夫や妻が働いている場合に、仕事上の負荷や休日の不足、疲労などによって、この目標達成には無理がきて、何のために頑張っているのかわからなくなります。

あるいは、子どもの能力を高めるという目標で、学業、運動、習い事のサポートを親が頑張っていたとして、子どもがその期待に応えられなくなったり、意見が合わなくなるとトラブルになります。

所詮、個人の集まりであるなら、あるときは、願いが一致しても、それは簡単に崩れてしまいます。そして、家庭とは、果たして、そのような場なのか、考え直してみたいのです。

個人が求めるもの、とくに精神的な価値を求めるのが、家庭だとすれば、矛盾や相克の場になりやすいのも家庭です。

そうなると、求めるものが得られないと予想されると結婚しないという選択も妥当性があるし、子どもを育てることにも価値が見えないなら、必要ないと思われる場合も出てきます。

現在、LGBTの方々の結婚が社会的に認める方向が出ているのが、そもそも、ノーマルとされる方の家庭もまた、個人の思いが結びついただけなら、批判することはできないでしょう。

もちろん、このような個人を切り出した社会では、結果として独身の増加、子どもの減少に至るでしょうが、そもそも、集団存続のために個人が役割を果たすという感覚がなくなればそうなるのは必然でしょう。

新しい家庭観、職場観、社会観が生まれない限り、いくら、損得で、少子化問題を訴えても、効果は小さいように思います。

ここでは、ライフストレス研究として、人間の自己保存性と社会性の問題を整理する必要があるということを確認したいと思います。

むしろ、個人が配偶者、親、子に何かを求めるということを個人的意識で進めるのなら、すでに述べてきた主体性の向上という視点で家族問題を扱うことだと予測しています。

消え去った「神」「国家」「社会」「会社」「家」への奉仕、役立ち、義務の遂行という観念の代わりに、主体性の向上によって、自我の固定性を超えて、他者へとかかわっていくこと。

そのなかで、新しい集団への思いが生まれると予想しています。