ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

家族の現実からの考察

かつての「家」という観念がなくなったこと。

個人が社会から切り出されて、心理的にも個人の意識が前面に出るようになった。

集団の存続が、個人の存続だということが知的には分かっていても、自分の願望を犠牲にしてまで集団の役割を果たそうとする精神が希薄になった。

むしろ、現代人が望んでいるのは、自分の個人としての願いを叶えてくれる仲間との出会いや関わりであって、国家、地域社会、職場、家庭にそれを求めても得られないという苦悩がストレスになっている。

そこで、インターネットを通じて、あるいは趣味の交流などから、自分の思いを生かしながら、他者と調和的にかかわれる場を求めている。

それが得られたものと、得られなかったものが、ストレスの大小につながっている。

願いが叶わないどころか、苦しみを与える他者、集団であれば、そこから離脱することも選択される。しかし、経済的、社会的な意味で、生存手段がみつからない場合、不本意に家庭内に身をおいて、引き込もることになり、それもまた苦悩である。

人間はそれぞれが願望世界をもっていて、それを裏切るものが異物として意識されて、過剰なストレスになると書いてきたが、願望世界のなかで、自分が属する仲間、集団というテーマがあり、それがストレスを与えている。

しかし、自分に合わせた現実、自分に合わせた集団があるはずもなく、これまた、願望世界が見せてくる幻であり、その世界の自我性、固定性をゆるめていくしかない。

その意味で、今の時代に存在可能な集団について考察が必要である。

今の時代、矛盾を最後は家庭で引き受けるために、「働けない人がいる」「引きこもっている」というふうに悩みとなるが、「世帯」で考えれば生存は可能な状態である。将来が不安という意味は親世代の老後の心配と、自分たちがいなくなったときの、その本人の生存の問題である。

介護の問題でも同様の悩みが姿を見せる。

家の存続から、個人の存続の同盟にかわったとき、同盟者相互に、相手に求めること、自分が果たせることが意味を持ってくるようになる。

これから、個人主義の親がなぜ子どもを育てるかという意識もまた、変質していく可能性がある。

古い価値観が消えたが、それに代わるものが現れず、個人レベルの願望で、すべてを解釈していくしかない現代。

わたしもまた、この問題の答えをこれから探していくことになる。