ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

集団というフィクション

すでに書いたように、個人が社会から切り出された時代にあっては、各自が前提にしている所属集団は、かつてのようにリアリティを持ちえず、幻想の一部となっている。

進化の過程では、個人としては自己保存的で競争的な者が有利であるが、集団相互の競争では、集団内でメンバーが協調的であるほうが有利である。それゆえに、協調的な人間がいる集団が残っていくが、集団内としては競争的な者が残っていく。

そうして、集団が合成されて巨大になっていったとき、人間の特徴として、個人を保存するという傾向と、集団の保存のために献身するという傾向の両方をあわせもつようになった。

しかし、集団間競争が個人の生存と一致して運命をともにするような状況が薄れて、家族、地縁血縁、会社などから、個人が切り出された時代にあっては、個人は集団と運命をともにするよりも、適切な集団を選んで移っていくか、集団内で、自己を守る行動に出るようになった。

そのような矛盾が顕著に出るのが、「家族」である。

自分で選んだわけでもなく、幼少期には確かに自分の生存と家族の保存は運命をともにしているし、それを支える親も自分のことだけを優先するわけにはいかないので、ほかの集団とは違って、かつての集団と同じような内実を持っているように見えるかもしれない。

しかし、この家を維持している親もまた、すでに個人として切り出された存在である。つまり、自分が献身する対象としての「家」はもはや見えず、自分を構成する資源として「家族」を持っている姿に変質している。

自分の家族、自分の家。つまり、自我の固定化、領有化作用と延長として家族がある。

このような状況での子育ては、自分が親として出来うることをやりたい、自分がよい家庭をつくりたいという発想になり、自分をも献身させる対象としての「家」があるわけではない。

つまり、父として、母として、逆に子どもとして、それぞれが相手の願いを予想して、自分の願いを重ねて、自分の主体性の展開として家族にかかわっていくのだから、自我性が強く働いていると、自分の願望に相手がそわないと不快、不満になる。

集団ではなくて、距離の近い、密度のある人間関係として、家族の関わりは成立している。

このような状況では、誰かの願いが叶えば、誰かの願いが潰えるという関係になり、様々な争いと相克を見せるようになる。

いや、家族には、最後の密な人間関係のなかでの愛があるのではないかと反論されるだろう。

しかし、その愛とは個人としての精神の発露であって、集団への献身とは異なったものだ。

以上のことを逆説的にいえば、従来、メンバーが献身してきた家という集団はフィクションであって、すでにそれが壊れて、家族のなかでは、個人間の密な人間関係が営まれている。

それゆえに、一方では、地獄のような争いと恐怖と空しさが姿を現し、一方では、愛や感謝といった人間の精神の華とのいえるものを現れている。

もちろん、この差は、個人の主体性の力の差であり、自我を乗り越えていく過程である。

一方で、現代社会で問題とされている、依存症、うつ病の出現は、かつての「集団」が実在であってほしい、そのなかで役割を果たして安らぎたいという従来であれば適応性の高い人が、集団のフィクション化、個人意識の増大によって、ダメージをうけることが背景にあると考えている。

同様に、パーソナリティの障害だと言われている方もまた、現代社会の個人主義の距離感とフィクションについていけず、さりとて安らぐことのできる場所、対象もまた見つからず、異邦人のようになってしまっているように感じる。

引きこもりの方についても、引きこもりというよりは、安らぎ、献身する対象としての集団が消えて、個人と個人の軋轢の場と化したところからの避難であり、家もまた、避難の場所としては軋轢があるのだから、居場所をなくした苦悩にさらされていると言えるだろう。

しかし、そのように目に見える形で表現できなくても、精神的には、どこにも安らぐ集団を見出せないというかつては適者であった人間が今は内心の苦悩を抱えているのだと思う。

以上のことは私の印象であり、いまだ、学術的な裏付けもないのだが、個人を社会から切り出して、空っぽになった社会、集団、家という切り口を検討しているところだ。

ところが、上記のような不適応を起こす人、内心で抱いていて生き辛い人、それが親の育て方、成育歴によるという意見があるから驚きだ。

家という親もまた献身すべき対象としての集団があったときと異なり、それぞれが異なった気質、性格、人格をもって、集まっている場所で、何が起きるか、それはもはや偶然的なものとなっており、特定の犯人を見出すことは難しいと私は思う。

もはや、どのような家庭がよくて、どのような子育て、夫婦関係、親子関係がよいかも、規定できない状況に至っていると思う。

主体性の向上のはてには、自我をも乗り越えて、不可知の世界、精神の故郷につながる道があるという。家族の在り方、社会の在り方もまた、その精神の故郷からのエネルギーで再構築するしかない時代になったように思う。

生存のための集団という形が崩れているがゆえに、本当の精神的な創造が始まっているともいえるだろう。

逆説的になるが、家族、社会、職場を大切だと思うがゆえに、従来の枠組みの「集団」が消えたのだと認めるところからはじめたい。

自己保存的集団論の終焉と、主体性が開く新しい集団論のはじまりというテーマで考察していきたい。