役割と主体性
集団が精神的な意味でリアルでなくなって、自我の延長としての資源化していると書いた。
しかし、精神的には自我中心的であっても、やはり、集団を成立させるために「役割」があり、それを果たすことによって、何かの利益を手にするということは事実としてある。
従来は、この義務を果たして、自分の生存が集団によって保障されるという精神的な安心がベースにあったのが、この集団への信頼は消え去って、職場では社長や上司は「他者」として現れ、自分が何をすればよいのかを他者の意図を読むことで実現しなければならない。
集団のおきてがあって、それに社長も上司も従っているという風土では、自分が従うのは集団であるが、こうして個人がむき出しになって職場では、自分は他者との関係性のなかで業務を行っているという意識になる。
それなのに、だれもが自分の立場から集団のルールを設定して、「自分は守っているが相手は守っていない」と考えてしまう。自他関係の後ろ盾として、ルールを持ち出してくる。
もっと、職員のやる気を大切にして、能力を活用するのが大事なのに、上司は分かっていないとか。
会社全体の利益を考えれば、無駄なことはしないはずで、少しでも効率的になるはずなのに、何の改善もしない職員は、分かっていないのだ、とか。
個人間の対話さえ難しいのに、こうして、それぞれが自分を中心にして集団を語る。
集団の存続発展のために役割を果たさねばならないが、もはや、その「役割」は、各自がバラバラにとらえているようだ。それと反する指示があったり、願いがあっても、受け入れられない。
制度的、経済的には、機能しても、精神的には、集団が機能しない。
こうなると、主体性を働かせて、他者を信頼し、他者に貢献しようとするエネルギーを増大させていくことが大事だが、そのなかで、願望による拘りから離脱して現実的になっていく必要がある。
個人の願望世界が「現実」を異物として把握すると書いてきたが、集団もまた、この願望にからめとられている。
ここで必要な考え方は、集団を成立させて発展させていくということに主体性をもって取り組むことだ。
願望の集団や他者をないものとして認めて、自分と他者、自分と集団の関係を自分で創造していくことだ。
どのような集団をつくりたいか。それが自我を離れて、精神の故郷からの声に従って、主体性をもって取り組むテーマとなる。
そこで、はじめて、社長、上司にどのようにふるまえばよいのか、部下にどのように接すればよいのかという答えが出てくる。
消えてしまった集団を、自分の主体性で再創造する力を伸ばしていく。
そして、社会から個人が切り出されたという表現の裏に、神から人間が切り出されて、神は「空」になってしまったという話がある。
生き辛さとは、安んじる神も集団も対象もない、個人がむき出しになって、切り出された世界での懐古の情、望郷の念、喪失感のことである。
しかし、自分の知っている世界の背後に、不可知の世界、精神の故郷があって、主体性を伸ばしていけば、この「世界」で創造や愛や自己統合をすすめていける。
そこから、新しい集団もまた再構成されていくのだと思う。
空の巣のようになった、この社会、職場、家にあって、それを生きたもの、続くもの、創造の連続として認識できるように自己を開いていかねばならない。
結局、この社会が精神をなくして、物質化したこと、自我からみてすべてが道具化、資源化されたこと、あるのは、自分だと思い定めて領有化したもの、自我だけ。
その働きで、集団の精神もまた、消え去ったと思われる。
この物質化した世界を精神的に蘇らせるというテーマで、集団もまた蘇っていくに違いない。
まずは、主体性を伸ばして、信頼を育て、「貢献」の力を育てればよい。