ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

主体性と「法則界」

自分とは、自分で動かせる主体性の部分と、自分では動かせないマクロの摂理(法則界)の合成である。

身体を考えると、自分で動かせる呼吸、筋肉、感覚、行動、言葉、食事、睡眠、運動、資源活用という主体性の項目があるが、それを支えている自然性の部分、自律的に動いている部分が大部分である。

この内なる自然は、外界の自然とつながっていて、マクロの摂理(法則界)を構成していて、所詮、主体性を働かせることができるのは、その動きを法則界が受け止めて、結果をもたらすという全体があるからだ。

つまり、大きな自然、マクロの摂理、法則界がすでにあって、それに沿った主体性の働かせ方と、それに反した主体性の働かせ方があるということだ。

主体性というテーマは、実は、この背後の法則界とセットで考えないといけない。

そして、この法則界は、生きるうえでの「生命」「生活」「人生」というそれぞれの階層にあって、その秩序のなかで、自由な選択をしながら、つまり、主体性を発揮して生きているのが人間だ。

原始時代には、この法則界は、まさに自然の摂理であり、そのなかで人間が構成した群れ、集団のなかのおきて、規範であった。

この集団の規範があるからこそ、人間は自由な選択の結果をゆだねて生きていくことができた。

現代社会で、各人の主体性の背後を支えている法則界とは、どのようなものになったのだろうか。

自然界の法則が、さらには物理法則として、とらえられて、それをたよりに主体性を発揮していることは明らかだ。

それ以外では、社会において、法律や慣習など、やはり、行為の結果が予想されるものは法則界として背後におかれている。

しかし、職場、家庭などでは、かつての部族内の規範のような、主体性を支えている法則界が成立しているのだろうか。

この法則界は、それを信じる人間の精神によって実在化しているのだから、それを自覚しないものが増えていくと、主体性の発揮は、自我による固定化、領土化、支配下、道具化と区別がつかなくなる。

点である主体性が面である自我になった。それはこの法則界を見失ったことと表裏一体である。

それゆえに、物理法則以外の精神的な法則があると、新宗教やスピリチャルなどで主張するが、それを信じている仲間のなかで、精神的に実在のものになって、主体性を支えるのだろうが、それと隔絶していきる者には、それは見えない。

こうして、考察してみると、これまで、主体性の向上について、整理してきたが、そこには抜け落ちているものがあったことに気づく。

それは主体性の発揮によって、どのような結果が出るかという法則界についての考察であった。

それは集団内の規範が自然法則と合致しているのか、乖離しているのか、というテーマにもつながる。

そして、結局、人間がどのように生きればよいのか、という元の人間学的なテーマに戻ってくる。

つまり、主体性の増大が自我を超えると書いてきたが、超えた先に、どのような法則界があるのか、人間を支えている因果律があるのか、あるいは、それを不可知だとしたら、主体性の発揮はどのような基準で進められていくのか。

しかし、この法則界に似たものとして、各自の「願望世界」がある。そこでは、自分なりの法則、辻褄があって、それにそって、生きようとしているが、他者や現実の出来事がそれを阻み、異物として認識されることになる。

各自の精神に、実体としての法則界を作り出すことが、個人的な願望世界でもなく、新宗教の集団的な願望世界でもなく、不可知の世界、精神の世界の創造活動に合ったものに、どうしたらなるのか。

それもまた主体性の増大のなかで考えていかねばならない。