ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

私の実践

自分の身近な人とは距離をとることが難しい。

そこで、相手が「自我」をむき出しにして、願望世界のなかで、苦悩している姿が見えたとする。

相手が複数になると、それらの者の争いが自我のぶつかり合い、お互いの願望世界の軋みとして見えてくる。

そうすると、自分もまた、自我が前面に出て、自分の願望世界が軋みだす。

これが自我のもつ領有化、なわばりの奪い合い。

このなかで、いかに、自他、他者間を調和させようとしても、うまくいくはずもなく、葛藤や不満に陥り、こちらも苦悩する。

おなじ穴のムジナになる。

このような自動的な働きは避けようのないもので、だれが悪いのでもない。

自分が主体性を手放して、自我の軋轢の世界に飲み込まれたのだ。

多くの人間は、このような仕組みで発生している苦悩を実在のものだと考えて、相手を変えようとしたり、自分を変えようとしたり、あきらめて関わりから回避したり、破綻して破壊的な行動に至るか、あるいはすべてを我慢して、表面的な調和を作り出すことにエネルギーを浪費していく。

正直に言えば、これまでの過去の私もまた、そのような一人であったし、どうしたら、この連鎖から抜け出せるのかも知らなかった。だから、自分を被害者と考えて、育った環境や、属する集団や、相手を内心批判して、相手を加害者のように考えて、生き辛さを感じることもある。

今でも、取り扱いを誤れば、容易にこのような心境に陥ることができる。

しかし、このような世界を生み出しているのは、すべて自分である。

相手が自我をぶつけてきて自分の自我を砕こうとしているように見えるのは、こちらが願望世界にあって、自我の領土化、固定化の機能を発揮しているからだ。

すべては、精神の故郷に在る自分が世界を構成し、創造していることを思い出そう。

そして、他者の姿だと見えるものはすべて自分の精神の表現である。それが自我のぶつかり合いに見えるということは、自分の精神が固定化して自我の保存力の殻にとらわれているということだ。

そうやって、この世界を主体的に見直そう、理解しなおそう。

すると、そこには、ただ、自分の生命、生活、人生があるだけで、すべてはその構成要素であり、すべては自分の生そのものだときづく。

こうして、与えられた環境や、登場人物が尊いものだという観念を手にすることができる。

そして、自分が構成しているこの「世界」をよきものにしたいという取り組みを始めるしかない。

そうしたとき、この世界の一部として「私」がしめていた部分が本当の私ではないということを思い出す。そうして、その部分的な私を苦悩させていた相手もまた本当の相手ではないと思い出す。

相手は、やはり精神の故郷にあって、平行世界のように、私の世界と重ねて、別の世界を主宰し、創造している存在なのだ。

私の世界のなかには、本当の他者はいない。

相手の世界のなかにも、本当の私はいない。

お互いに、対等な世界の創造者として、構成者として、不可知の精神の故郷にいる存在だ。そして、それは分かてるものではなくて、大きな精神の一部であると言われている。分霊という言葉は、このような背後の世界にあってリアリティを持つ。

このような思弁的にも思える思考法が、ごまかしのように思えるだろうが、それとも、日常の自我のぶつかりあいの世界こそが幻なのだろうか。

どちらが正しいかではなくて、この二つの見え方がバランスをとっているのが、人間が暮らしている世界だと思われる。

こうして、自分の精神が背伸びをして、せいせいとしたら、また、自我の世界に戻ってきて、自分のつくった世界のなかの、一人の登場人物として、ふるまえばよい。

自分が監督・制作をしている舞台であっても、そのなかに一人の役者として登場してもいいではないか。

大事なことは、素敵な舞台を成立させることであって、この舞台をつくっている自分、監督である自分を見失って、本当に相手の役者と喧嘩をしてもしかたない。

今は、このような表現しか、できないが、私もまた、実験的に、このような取り組みをしている途上である。