ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

主体性という薬

自我の軋轢が、冷静な解決を阻害して、感情問題へとゆがめていく。

それゆえに、相手の自己中心性、共感性の欠如について、悲しんだり、腹をたてることになり、結局、自分が被害者、相手が加害者になり、自我の領有化の対立という様相を呈することになる。

このときに、相手の機嫌をとろうとか、妥協案をさぐろうとか、自分が反省して言動をかえようとしても、それは自我の働きなので、この苦悩から抜け出すことはできない。

すでに、自分も他者も毒がまわっているのだから、それを無害化する薬をのまないと、どうしようもない。

その薬が「主体性」を取り戻すことであり、ライフ・生命、生活、人生という広い視野をとりもどすことであり、その意味でプロセス主義を思い出すこと、さらには、この主体性の根源は、この世界の内部にはなくて、この世界を構成・創造している背後の不可知の世界にあることを思い出すことだ。

自我とは、この世界内のある一部分の領有化したところが「自分」であるという固定化作用、そして、それを奪われないように防衛する作用である。

しかし、この世界を生み出しているのが自分だから、この世界のなかには自分はいない。

自我をはなれて、世界の構成・創造者の視点へと移動すること。

もちろん、この世界の本当の創造作用とは、不可知の世界の様々な力であって、自分はその一部分であるから、「分霊」と呼んでいるだけだ。

古来、自我を離れて、神の視点にと、言われていたことは、このような主体性の発揮のことだと考えている。

すると、相手も同様の分霊であるのだが、自我に飲み込まれて、自分のことがわからなくなっているだけで、毒をのんでくるっているようなものだ。

よく、罪を憎んで人を憎まずというが、この場合は、相手の分霊としての尊さは何ら変わらないが、自我の毒によって混乱しているのだという理解を持つべきだろう。

それは、自分にもいえることであって、苦悩のなかで、自己卑下したり、自己改造を目指すのではなくて、自我に飲み込まれて、分霊としての主体性を失っているという反省をすればよい。

相手の人生、自分の人生に苦悩が満ちているのは、ほかでもない、分霊としての働きをせずに、自我の毒にまみれて生きてきたからで、ほかに加害者がいて、自分が被害者というものでもない。

古人が、神への罪をつぐなっていくようにといっていたのは、以上のことだと理解している。

だから、苦悩が襲ってきたら、主体性を失っていないかと点検して、さらには、この苦悩は、自分が自我に飲み込まれて、分霊としての働きを忘れていたからだと思うしかない。

このような考え方は、宗教的なものだと思われるかもしれないが、人間の精神においては、リアルな取り組みである。

主体性は最初は、自我が色濃く働いているところからスタートするだろうが、主体性を高めていくと、自我をも超えて、自分が世界の構成者として背後の不可知の世界に、安座していくようになる。

この世界内存在から、世界の背後の存在へと、あるいは、その逆の運動を繰り返して、自由に行き来できるようになることだ。

背後の自分は、この世界内の自分をつかって、この世界内の他者や事物に働き掛けるしかないのだから。