分霊の世界
適当な言葉がないので「分霊」という宗教色のある言葉をつかっているが、自分が体験している世界は自分独自のもので、その意味では、自分が世界を構成し創造しているともいえる。
その創造者としてのニュアンスをこめた言葉が欲しいのだ。
しかも、それぞれの世界の背後には、不可知の世界があって、そこは存在の根源、大きな自然、大きな物語、精神の故郷でもある。
私が分霊として、自分が暮らしている世界を創造しているといっても、それは「構成」を自分がしているだけで、本当の創造者であるわけではない。
その意味では、不可知の世界には、この自然界を生み出し、生命を生み出し、民族、社会、国家を生み出し、人間の精神的な成長をもたらしてきた働きがある。進化を生み出してきた力がある。
これらの力に対して、分霊としての自分が働きかけ、導かれ、包まれ、動いているということなのだろうが、自我にとらわれて、それを忘れて、世界内の個人としての自分の保存、発展に執着するところから、背後の様々な力の導きからずれていく。
聖賢のおしえも、世界内の操作的なものではなくて、世界の背後にある、分霊としての自分が、より大きな創造者たちとどのようにかかわるかという「精神的な世界」でのガイダンス、つまり、三次元シュミレーション時空の内部の行動原理ではなくて、その背後に住まうものとしての活動原理であったと思う。
その混同が、聖賢の教えを自我まみれにしてしまって、薬としての力を奪ったのだと思う。