選択のはてに
ライフ(生命・生活・人生)創造は、主体性という機能によって刻々と進んでいる。
この選択の連続は、行為だけでなく、そこに込められた意図や意味の世界も伺うことができる。
人間という「種」としての営み、生物としての営み、物質界としてのとらえ方・・・
このライフの基底となる世界について、様々な見方がありえるが、どの見方も役立つときと、弊害を生み出すときがある。
全体という不可知の世界を人間にとって説明可能な世界へと抽出し、囲い込むことで、矛盾は必然となる。
人間の生き方は、選択力、主体性をつかって、自由に不可知の世界から知恵をえて、人間の世界を変化させていくこと、進化させていくことだ。
つまるところ、刻刻の選択の矛盾やミスマッチ、問題を改善していく営みがよいライフ創造につながると思う。
ところが、人間は、自分が知っている、思い込んでいる固定した世界を実在だと考えて、強引に生きていくのだから、そこに悩みや不都合を抱えてしまう。
それでも、固定した選択をやめないのは、その選択に慣れているからであって、新しい選択が怖いのだ。
また、自分の選択には、相手が主体性をどのようにつかって選択していると思うか、それを選択することも含まれる。
ライフ創造は、自他関係のなかですすむ。物にアニミズムのように精神をみるのか、動物をどう扱うのか、自然や木々をどう扱うのか、それも選択である。
しかし、逆に、この選択は、どのような力で成立して、導かれているのかというと、過去の選択によってできた行動パターンの受け入れ、モデリングによるものであり、これを自己の根源とみるとか、自分の恩人たる他者の根源とみるのか。
それは同じことであるかに思えてくる。
この「選択」はある意味、不可知の世界からの導きでもあり、この選択力が与えられていること自体が不可知の世界の計らいであり。
この議論は、全体のなかに溶けていってしまう。
「ライフ」=「出来事」=選択=主体性=自己性×他者性=精神×物質=不可知×可知=全体
というふうに姿を説明のなかで変えていくだけだ。
このように思考がゆれていくのはなぜか。
それは本質を知って、仕組みが分かれば、それを応用できる、使いこなせるという人間の前提によるものだ。
これもまた、思考の癖である。
その場面に応じて、選ぶという姿勢と、根源を知って使いこなすという姿勢は異なる。
後者が当てはまる場合も多いが限界を知ることが大切だ。
前者の限界もまたある。
その意味では、このライフに関する説明も、両方を活用してすすんでいくことになるだろう。
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もう一度、上記の記事を整理すると。
ライフの創造には、自己性と他者性がある。
他者性も自己性も全体へとつながっていく。
主体性を及ぼしていくときに、すべてを選んでいるというふうに自己性も全体へと広がる。
その反対に全体性から自己へと戻ってくるルートがある。
自然界、社会、家族、遺伝、・・・・
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思考法
自然 社会、集団、個人、他者、自分、身体、心、意志 (客観的記述的)
主体性(主観的・実践的)