ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

モラロジー関連

出来事が人生であると考えれば、刻々の選択をして人生を創造しているのが人間です。

これを自分の主体的選択で創造していると考えれば、自分で動かせないもの、つまり、選択の外にあるものは選択する際の「前提」になります。

それが良くても悪くても受け入れざるを得ず、ドラマでトラブルが起きたり、悪役が出てくるようなものでそれは人生上意味あることになります。

一方、多くの人の主体的選択によって自分の人生も刻々と創造されていると考えれば、他者は、自分で動かせないことを動かしてくださっている恩人です。

これらの方に感謝と恩返しをしていくことが人生のテーマとして上がってきます。

しかし、後者の考え方に立てば、自分の人生を邪魔しているような閉ざしているような他者が目につくと、加害者のように見えてきます。ここに自分なりの損得や好き嫌いの識別が入ってきます。

どうも、普通の日常生活は、このような自己優先の視点と他者優先の視点が切り替わって過ごしているようです。

つまり、この二つの考え方もまた、局面によって適切に選ぶ必要があるようです。

この二つのどちらも妥当性がありますが、場面によって不適切なのに切り替えることができない状態を「自我」と呼んでもいいかもしれません。

意なく、必なく、固なく、我なしというふうにいわれますが、切り替えという柔軟性をなくした固定した執着状態だと思われます。

これは、二つの見方を例にしましたが、私たちはどうやって、思考や判断、そして行為を切り替えているのでしょうか。

それは自己保存、集団保存という傾向性だというのですから、全体という大きな視点からみれば、うまく選択が合うはずもなく、不都合が出てくるのだと思います。

どの思考が正しいか、どの考え方が正しいかではなくて、それを選んでいるのはどうしてかと考えてみると明らかになることが多いでしょう。

モラロジーでは、自己判断が自己防衛、集団防衛にならざるを得ないことから、この選択の歪みを正し、全体に合ったものに変えていこうとしてます。

その意味で、逆に全体の意をくんだ「判断」に、自分の判断を寄せていく、同化していくということを提唱しています。

これは上記の普通の恩人とは異なったもので、家の伝統、国の伝統、精神伝統、準伝統といわれるものですが、これらの根源は、全体・宇宙・神であるといいいます。

目の前では、親、君主、師、社長などの「他者」として見えますが、そうではなくて、全体が自分の人生を育ててくれている知恵や力が代々の系列を通して、ついに、その方を通じて自分に及んでいる。

そのように考えて、自分の判断を停止して、全体の根源の判断に同化するというのです。

はたして、このようなことが可能なのでしょうか。

自分の判断を手放すことの恐怖、結果が分からない恐怖などで、実行が難しい人も多いので、モラロジーができ、学祖や先輩がモデルとして実行の記録を残しました。勇気をそこから得てくださいというのです。

伝統が見えるようにならないと切り替えることもできません。もちろん、見えなくしているのは自我です。

伝統とは、現代人が失った「観念」だと学祖はいいます。似て非なるものをそうだと受け取っている可能性があります。

自分の主体性の機能からみれば「人生は自分の選択であり、自分に責任がある」という覚悟になります。

そして、「人生は全体〈神〉とその精神を受け継いだ伝統が創造しているものであり、

モラロジーで他力の中の自力と言われている調和が必要なのでしょう。