ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

やはり前に

挫折を乗り越えるためには希望が必要である。

これまでのやり方や考え方が足りないのであれば何かを見つけるしかない。

私はそうやって進んできた。

そして、カウンセリングの限界を超えるために、主体性訓練という考え方に至った。

私自身もその考え方によって救われ、柔軟性と自由を取り戻せた。

それは、この現象世界であれ、物、人、自分、他者、価値観、すべてが、創造された概念であること、そして、その背景に実在があること。

観察者としての自分、創造者としての自分は実在の一部であり一体であるのだが、現象はそこから見えるもの、そこから動かせるものとして、時間も空間も超越していると考えたからだ。

過去も、未来も、今も、自分も、他者も、そうやって設定したものであって、絶対ではない。

もちろん、この実在を本質的におっていくような哲学的な探求もあるのだろうが、私が見つけたいのは「生き方」である。

あるいは、主体的な生き方を阻むストレスへの対処である。

これは、自我の内部に「信念」「認知」を設定して、それを変えないと適応がうまくいかないという考え方とは異なる。それでは、環境は固定され、受け身で生きていかねばならない。

すべてを動かしうる。ただ、動かせるように、という条件はあるが。

そうやって、人間の生き方を主体性としてまとめると、ストレスは主体性の阻害である。

つまり、筋という随意性、主体性をはばむのがストレスなので、緊張と弛緩、さらにはその中枢の復元を目指すことが、主体性の回復になる。ホメオストレッチがカウンセリングであるというゆえんである。

また、たとえば、関心、観察、理解、自信、自主、意味、信頼、貢献、希望これらの精神的主体性を回復させることが心理カウンセリングではないか。

また、主体的価値創造が阻害されている場合に、それを促進するのが、臨床人間学的な介入になるのだろう。

では、この阻害要因の本質とは何だろうか。

主体性が低下したから、ストレスが増大したというのか。

阻害要因のせいで、主体性が低下したと考えるのか。

ストレスの本当の定義はなにか。

それには、LIFE創造、生命、生活、人生のバランスのとれた創造という大前提があって、それを推進するのが、主体性であり、LIFEのアンバランスがストレスであり、その原因は主体性のアンバランスであると考える。

では、主体性のアンバランスはなぜ起きるのか。

それは、現在、過去、未来という時間感覚は生活上必要だが、それがほかの時間感覚を圧迫しているからだ。

また、現象世界という空間が、生命の空間、人生の空間を圧迫しているからだ。

つまり、自然の子、価値の子が、社会の子として立派であろうとすれば、阻害されるというようなことが、時間的、空間的な歪みをもたらせて、それが主体性のアンバランスを起こしている。

空間のなかには、自分と他者、集団、社会といった関係性の問題がある。

自我の問題として、自我が他者に開かれるのは、生命の時間空間、人生の時間空間においてであって、生活においては、関係性の中で必要な自分と他者が出現する。

このような3つの位相が重なって人生ができているとすれば、その本質的主体は、実在にあって、それらを統合しているだろう。

では、以上の考えを研修や面談にどのように生かせばよいだろうか。

それは、この3つのチャンネルを身体的主体性、精神的主体性、主体的価値創造として、使い分けながら、それぞれを大切にしていくような取り組みを支援することだ。

病気に人生が飲み込まれたり、経済的生活、ときには成功でさえ、生命と人生をゆがめたり、この3つの偏りを修正していくような取り組み、そして、自我、内面の分析は、主体性とは別の、生活空間、時間において、成立しているもの、限定されたものだと自覚すること。

つまり�@身体的主体性は、自然界の摂理、身体のホメオスタシスといった理解で示されるようなものに包まれて、主体性を発揮していく営みであって、そこに見える他者や他の生命は、生活面のものとは異なる。

�A精神的主体性の背景には、自分と他者、社会があって、その関係性の中で、自分も他者も成立しており、社会や関係性は、映し鏡のように、自分や他者の精神性として理解される。

�B人生としての主体性、価値創造は、育っていない、異なった育ったもの、そこに、どのように育成していくかという意味で、自由で、柔軟な、自分のキャンバスのような世界がある。

他者にしても、�@�A�Bでその姿を変えていく。

現代では、�Aという物質世界において、個人を設定して、自他の関係性を見出して、そこでの苦楽を人生だと思っている。ここでは過去から未来へと直線の時間がつづく。

それを�@や�Bの空間、時間が、新しい主体性の発露として、救いになる。

�Aのなかでの解決は、結局、自我に集約されて、認知や信念を変えて、関わりを変えるという取り組になってしまっていて、その難しさがあった。

そして、�Aの時空の根源が、物質、個人、そして、客観、共通理解、つまり、他者の眼差しであったこと。

そのなかでの主体性が苦であればこそ、楽であればこそ、このゆらぎの中で、ゆらがないものとして、価値創造に進むのではないか。

つまり、�Aの世界、時間空間を超えるには、�Bの世界の創造にすすむしかないということが答えだと思う。

そして、�Bの世界を成立させているのが�Aの世界なので、それを否定してはいけない。

また、�Aの世界があるのは、�@の世界の基盤のおかげである。

このような理解にたった援助が大切なのだと思う。

さて、美野田啓二先生のバランスセラピーはこの基準に照らしてどうだろうか。

価値創造のゴールが異なっていたようにも思う。

自然性とは何かについて、考えを整理する必要があるかもしれない。

人間の自然性を目指したバランスセラピー

ライフのバランスのとれた創造をめざしたライフストレス研究

この違いは、どこから来たのだろうか。

それは人間観の違いだろう。

脳科学的な身体重視の人間観から、統合という実践性によってライフへと広げていく考えと、

ライフというゴールから、逆算して、人間に戻ってくる立場の違い。

釈尊の、おのれこそ、よるべという価値を表現したのが美野田先生であって、

関わりの中心である自分を整えると言われていた。

私は、人間が生きるとは、ライフの創造であるということからスタートした。

主体性を駆使して、人間を整えるのではなくて、人生、生命、生活を整えようと、言った。

それは主体である「自分」について疑問をもっていたからだ。

己とはなにかと。

そして、私は結局のところ、現象界で、「自分」だと思っているもの「相手」だと思っているものも、実在の主体が創造したものだと考えるようになった。

身体という自分は、精神的な自我とは別物だと考えるようになった。

ましてや、価値創造の世界では、これが自分というものを掘り起こしても、何も出てこず、

育てない限り、ないものだと、あるいは、あるものに頼るしかないと。

自分の中にある、生命、生活、人生の現状は固定されたものでもなく、過去、現在、未来でもなく、創造されつづけていると。

何が正しいかではなくて、どうアンバランスになっているか。

そのような視点を大切にしたい。

このような議論に対して、心理的なものを過去が決定していると言い張るのなら、変わることは難しいだろう。それでも主体性を育て3つの段階をすすめていく。

私は、既存の理論と対決的に整理をしていかねばならない。