他者について
ここまでの考察では、主体性という視点でこの世界をみてきた。
他者が出現するのは、自分を設定したからだ。
ライフということでは、自分にとってのもの、他者にとってのものが異なるということであって、それを統一する絶対的な世界は存在しない。
もちろん、実在では、それぞれの生き物、それぞれの人間ごとの世界というものではなくて、そこに統一的なものがあって、それぞれも不可知の実在の主体として存在するのだろう。
宗教的には、分霊というようなもので、それぞれの概念的世界の創造主であるということ。
だから、そのなかでの他者もまた、創造されたものだ。
では、本当の他者とは何かを問うのなら、本当の自分とは何かも問わなければならない。
自分を主体性の根源だと定義すると、主体性の階層や進展によって、自分もまた豊かな姿を見せるだろう。
そうなると、他者もまた、階層を示し、豊かな姿を見せることになるだろう。
また、他者ではなくて、他物といっても同じである。
その本質はさておいて、人間としての自分が「物質」として出現されている。
そうなると、「自分」「他者」のまた、そのように世界内に創造されたものということになる。
物質も、精神も、自分も他者も、空間も時間も・すべて、世界のありようとして、実在の主体が創造したものだろう。
そうなると、物質、精神、自分、他者、空間、時間、それらにどのように向き合って、どのような選択をしていくかという、やはり、主体性の問題に集約されていくだろう。
だから、LIFEという視点では、特別扱いはないのだ。
すべて、主体性の段階であって、背後の不可知の実在の働きである。
しかし、私たちが、主体性を発揮するには、他者や他物が必要である。
他者がいるから、信頼しようとする、理解しようとする、貢献しようとする。
しかし、この他者もまた、創造物である。
自分が中心ではなくて、世界内に創造されたものだと認めれば、他者もまた、同じだときづく。
そして、経済、お金、企業、商品、サービス、それらも、すべて世界内に創造された概念である。
だからこそ、主体的にどのように関わり、向き合うかという課題になりえる。
では、集団はどうか。
それもまた、発明、発見であり、主体性の対象である。
正しさというものも、概念である。
すべてが必要、必然として、生み出されている。
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はたして、今の私は柔軟で自由なのだろうか。