ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

苦からの創造

かつて、人間の根源に、生存、親和、探求という三原色があって、それらは矛盾を含んでいて、そこから苦がうまれ、それゆえに、泥中から蓮が咲くように、創造、愛、自己統合という価値創造が起きると理解していた。

それをライフ創造という3つの世界の関わりとして、記述するならば、生命のバランス、快不快の世界で安寧に暮らしたいのに、生活の層で、個人として、対立しながらも、協調しながら、集団をなして生きるがゆえに、そこに、軋轢や、苦しみが生まれてきて、ある意味、生活のなかでの精神的主体性が阻害され、それゆえに、身体的主体性も阻害され、その悪循環がうまれて、ストレス被害が生じる。

当面は、生命の声に耳を傾けて、生活での工夫をなし、スキルを磨いて、生きていこうとするのだが、それでも、壁があらわれる。とりあえずのカウンセリング的支援、ストレスケア的支援は、簡単にいうと、身体的主体性と精神的主体性をバランスよく復元しようとする試みだろう。

しかし、それでも、生活がくずれ、生活は維持できても、苦悩の中に居るものがあり、支援者としてもどうしたらよいのかわからない。

まるで、過去という鎖、心理的な闇の鎖につながれてでもいるかに、生活の苦悩は消えず、生命のバランスもくずれて、復元力がはたらかない。それで、いきおい、社会から、人間から、距離をおいて生きようとするか、あるいは、自分を押し殺して、苦悩のまま、孤独に震えながら、すすむか。

そして、それを助けようと、近づいた者もまた、救うこともできず、苦悩に陥り、そして、そのことでまた、当人は傷ついて、さらに孤独になっていく。

このような悲劇の連鎖をどのように考えればよいのか。

それは、この苦悩から、新しい価値が創造される、そのために、自分という自我を超えて、空間も、時間も超越して、自由で、柔軟な自分が、生活の苦悩によって圧迫された主体性をよみがえらせるような価値を創造していくことによって、光がさしてくるのではないか。

もちろん、敬愛、反省、受容、信念、奉仕、感謝、安心、使命、統合といった価値は、苦悩の中に居る人にとっては、きれいごとであったり、これまで頑張ってきて傷ついたのに、さらに頑張れと言われているようで、そんなことは、自分を苦しめた、あの人たちがそうあればよいのだと反発するだろう。

どうして、苦しんだほうが変わらないといけないのかと。

しかし、これは変わろうというテーマではない。生活が苦悩であることは変えようもないし、変えなくてよいのだ。

そうではなくて、直線的な時間軸ではなくて、今ここでの、高さ、深さとして、視点をあげようということで、種をまいて、芽をだして、育成していくということなので、当面の問題解決でさえないのだ。

苦ゆえに、育っていく、新しい生命である。

生活の層では、個人対個人が、願望を満たそうとして関わっていて、それぞれが相手に自分の願いを叶えるようにと、邪魔しないようにと、そういう期待をもって、それを正しさや、ルールだと考えて行動しているので、行動のシュミレーションには、相手への期待や予想が入っているので、それを裏切られる苦悩、叶えられない苦悩、無理に押し付けられる苦悩、対等ではなくて一方的である苦悩、さまざまな苦悩が起きている。

シュミレーション、思考自体が苦悩であり、過去の記憶が苦悩であり、自己評価、他者理解が苦悩であり、生活のありとあらゆる場面で苦悩が生まれている。

それを、思考や、新しいシュミレーションで、解決しようとするのは、毒を毒で洗うようなものだ。

ステップとしては、苦悩がうまれる機序を明らかにして、理解しつつ、それを受け入れて、それとは別の価値創造をするしかない。

3つめの価値創造の階層は、2層の苦悩の発展的解消のための層であり、根や茎、葉、に対する花のようなものである。

その意味では、2層に特徴的な、時間、空間、自我、といったものが、3層の価値の世界においては溶けていっている。

1層は、身体的関わり、2層が精神的関わりであるのに、たいして、3層は、全人格的な関わりであり、1層と2層を統合したうえで、自らが価値創造を進めている者でないと支援できないのだと考えている。

だから、2層での問題で、思考をつかったあとで、苦悩があるなら、1層の回復をしながら、3層の取り組みをしなければならない。

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まちがっても、自分の中から、崇高な価値が出てくるのではない。

その根源は実在にあるのだろうが、それを先人が見出して実践したもの、発見、発明して、この人間としての世界に残っているもの。

だから、モデルとなる人格からいただくもの、モデルとなる人格の中の価値を移植して、種として、それを日々、実践して育てていくということになる。

論理ではない。

私自身も、モデルをもとう、実践をしよう、そして、その種を渡して、育てる手助けをしよう。

ただ、日常で感謝や奉仕という価値が敬遠されるのは、それを他者にやらせようとする願望成就のためのルールであるかに、言って、圧迫してくるからだ。

この価値創造を道徳といってしまうと、2階層のルールだと誤認されるだろう。価値意識としてわけて説明していくこと。

こうやって、2階層は、せっかくの価値も、利用しようとして、ルールという形骸化したものにして、自然の声も、機械的に、修理する、治せばよいと考える。

つまり、2階層が、いかに、1階層、3階層を無視しているかを明らかにしていくこと。

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さて、では、従来のストレスケア、カウンセリングは、実際のところ、何をしていたのだろうか。

共感、傾聴、明確化、質問、信頼関係、抵抗の処理、それらがなぜ、成長につながっていたのか、あれは成長だったのか、なぜ、それが分かるのか、もちろん、適応性の向上、身体機能の回復、心身の主体性の回復がみえる。

実のところ、緊張解放、脱力、気づき、行動化、目標設定、人間関係の融和などが起きていた。

それは相談者の力だが、心身の緊張緩和、とくに2階層、生活面において、対人関係での消耗を、ゆとりのある、ほっとできる、安心できる環境で保護していたのだろうか。

きづきと称するもののなかに、価値創造があったとも思う。

認知がかわった、行動がかわった、変容がおきたといっていたことは何だったのか。

認知が変わるとは、主体性が発揮された証拠だろうし、一部、価値創造にも入っていたかもしれない。

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では、新しく価値創造を積極的に支援するには、どのようなツールがありえるのか、授業などの教育システムが必要なのか、それとも、一対一、。

今、わかっていることは、2階層の軋轢をとく、スキルの提供と、モデルの提供が必要だと思う。

仏教などを参考にすると、前半は、軋轢、錯覚からの離脱のための支援であって、後半が仏への没入であるようだ。

従来、自我没却、解脱といわれていたのは、2階層の自分からはなれて、1・2・3階層の自分を統合して実在に自分を置くことではないのか。

瞑想とは、座禅とは、ホメオストレッチとは、なにか。

カウンセリング、コーチングとはなにか。

人間関係支援と価値創造はどのように関係するか。

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おなじ、精神的主体性である、関心から希望の項目でも、2階層に閉じ込められているから、うまく働かず、人間関係の苦悩になるのであって、

それが1階層、3階層への広がりができてくると、その関心から希望の項目が違ってくる。

同じように凡人のようにみえて、それは違ってくる。

価値をぎらぎらと出すのではなくて、あくまで、背後にあって、普通の2階層の暮らしを送ればよいのだ。

食事でも、掃除でも、頼まれごとでも、親孝行でも、1階層として嘘のないものとして、3階層の発明、発見の力のもとにあって制御されていると、全体のなかで、バランスのとれた、主体性のあるものになるのだろう。

実在こそが、分霊であり、神仏なのだろうが、私たちには不可知であり、娑婆世界、自我の世界としての、自他分断の願望世界としての2階層の現象世界をつつむように、階層をかえて、自然の世界と価値の世界が挟んでいるということになるのか。

これもまた、所詮、実在の主体がこのようにつくったというだけで、現代社会特有の理解にすぎないのだろうが、今、私は、このように世界をみて、それで生きていくし、支援をしていくことにする。

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モラロジーとの比較も気になるが、自然の声をきき、価値創造のうえで、2階層にいきるならば、そこには、神伝統が姿をあらわし、人心救済という活動が動き出すのだろう。

その意味では、モラロジーでは、従来の2階層の生き方を普通道徳、1階層、3階層と統合された生き方を最高道徳として、比較研究していることになる。

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以上、