概念の塊としてのストレス
概念の塊としてのストレスが「原因」である。
たとえば、それによって精神的主体性が奪われて、身体的主体性も低下して、
過緊張、自律神経のアンバランス等々、そして脳幹の疲労とストレス被害が起きたときに、
たしかに、直近の問題としては、脳幹の疲労が原因だし、それは過緊張をとくための、生理学的リラクセーションが大切だということになるが、
問題は、そこから、さらに身体的主体性の全体的な回復や、(ここで、感性の蘇りというテーマが浮かびあがってくる)
そこから立ち上がってくる、精神的主体性の高まりによる、自由で自立した生活が生じてこなければならない。
そこまでいかないと、結局、ストレス概念の塊は居座って、精神的主体性を奪い続け、そして、結局、感性をぬけがらのようにして、やはり、過緊張、脳疲労、ストレス被害へと向かう圧力が続いていくことになる。なにも、生活や人生は変わっていない。
むしろ、生理学的リラクセーションによる脳へのカンフル剤投入というような、ある意味、対症療法は、その癒しや、その技法への依存を生んでしまって、それがないと生活や人生が成り立たなくなってしまう。
では、主体性訓練まですすめればいいではないか、と教育システムをつくったとしても、もともとの原因は、ストレス概念が固まりとして、居座っていることなので、賽の河原に石を積んでも、鬼が蹴散らしにくるように、その営みは、ある程度の手ごたえを与えながらも、結局は、もとの黙阿弥という疲労感を生み出していく。
自分は変われない、人生は変わらないという信念までできるかもしれない。
このようなケースはまれであって、普通は身体的精神的主体性を高めるスキルや取り組みで、十分効果があるというのは、一過性のストレス圧に対するものであって、成育歴のなかから、ずっと積み上げてきて、日々の出来事がそれを補強して、まるで、雪だるまのようになった、ストレス概念の塊がある人にとっては、効果がうまく働かないし、働いたとしても、それは対症療法的に、支援を受け続けていくことになるのではないか。
治らないけど、続けざるを得ないのは、支援者はもとより、本人が絶望を感じていくのではないか。
このようなケースは決して少なくないのに、日常生活が破綻した場合には、「パーソナリティ障害」だという見立てがついて、そうでない場合には、内心に、このようなストレスの塊を抱えていても、周囲からも理解されず、この苦しみは、単に過敏なだけだと思われるだろう。
私は、ここに書いたような意味での挫折を味わってきた。それで、個人向けの支援をやめようと思った。しかし、それは原因と対策を見誤っていたのであって、それをまずは反省したい。
このような視点は、一般的には、「認知の偏り、歪み」として理解され、この認知を変えていけばよいのだとされる。しかし、それが難しいとなると、その奥にあるスキーマ、信念が不適切、不適応的なので、認知が変わらないのだという。
そして、発達の早期に形成されたスキーマを変えていくには、本人も支援者も大変な苦労があると、このように整理されている。難しいというのだ。
本当にそうだろうか。ここで、私は科学的な人間観に疑問を持つ。本当にそうやって、人間はまるで構築物のように、幼児期に出来たものの基礎に出来ているのだから、その昔を変えることができないように信念を変えることは難しいと・・・
本当にそうだろうか。
では、変えないといけないパーソナリティと、変える必要のないパーソナリティはどう違うのか、それはひょっとしたら多数と少数の問題なのか、特定の社会に合うか合わないという問題なのか。
では、他国人はどうなのか。
病気の定義も難しいのに、人格を変えないといけないとされたものの苦悩はいかばかりだろうか。
そのような固定された人格などないと私は考えたい。
実在に創造の主体はあるのだろうが、それはもはや全体であり部分であり、私でありすべてであるだろう。
そして、現象はすべて創造物であり、概念であり、「自分」と「他者」もそうやって、創造されたものである。
そうやって出来ている自我を世界の中心にすえて、その内部を想定して、そこに問題があるというふうに設定するのは、どうか。
だから、現象世界の創造力を高めていき、新しいものを創造することで、霧を払うように、まきついたつる草をはがすように、すすめていけるのではないか。
呼吸を主体的にすることは、呼吸をさせてもらうことと表裏一体である。
筋肉を整えていくこともまた、筋肉が整っていくことと表裏一体。
視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚、それらを働らかせて感じることは、それらが感じさせられていることと表裏一体である。
食事をすること、食べること、食べられること。
睡眠をとること、眠ること、眠れること。
運動をすること、動くこと、動けること。
行動をすること。〇〇する。〇〇できること。
言葉を発すること。〇〇と話すこと、〇〇と話せること。
資源を活用すること。〇〇を使うこと、〇〇が使えること。
このような主体性とそれを支えるものへの信頼の中で、身体の力、感性の力、活動力、生きる力が花開いていく。
そうなると、自然に、精神的主体性もまた、開いていく。
関心をもつ、関心をもてる。
観察する、観察できる、
理解する、理解できる、
自信をもつ、自信がもてる、
自主 自ら〇〇をする、自ら〇〇をすることができる、
意味 〇〇に意味を見出す、〇〇に意味を見出せる
信頼 〇〇を信頼する、〇〇を信頼できる、
貢献、〇〇に貢献する、〇〇に貢献できる、
希望、 希望をもつ、希望がもてる
しかし、この身体と精神の主体性は自然な意味でも「ゆらぎ」があって、固定されたものではない。
感情表現としてのネガティブ感情とポジティブ感情があるように、現象を前にして、揺らいでいる。
しかし、そのゆらぎは小さく、一時的には緊張し、反応的になり、主体性をなくしたとしても、また、復元し、レジリエンスを回復して、乗り越えていくものだ。
ところが、現実にむきあって、ゆらいでいる、このシステムを狂わせて、いつも、ネガティブ側に引き寄せようとする、ポジティブ側にもどして、主体性を発揮しようとするのを阻害しているものがある。
やじろべい、シーソーの、片方に不当にも、重りを乗せてあるようなものだ。
それは決して、自分の人格という固定したものの根底にあるのではなくて、価値観の世界、概念創造の世界、社会のよきものも、悪しきものも、吸い込んで集めてしまう、その場所にこそ、根源的に重みをつけてくる、ストレス概念の塊がある。
そして、それを「自分自身」だと思い込んでいるのだから、自己実現をしようとすれば、その流れ込んだ汚水の塊のようなものがむしろ、カビのように、はなひらいて、さらに胞子のような悪感情を生活や人生にまきちらしていく。
当人には、そうは思えず、他者や社会がそのような毒を飲ませ続けていると感じるだろうから。どんな支援者にも友人にも、家族にさえ、心を開くことはなく、このような苦しみを与えた加害者であるというだろう。
そうやって自分をいつも被害者だと思わざるを得ないのは、何も悪いことをしていないのに、他者の関わりで傷つけられるからだ。愛したくても、他者を愛せないは、けっして、自分のせいであるはずがない、このような状況をわかってくれない他者のほうに問題があるだろう。
だから、底知れぬ、怒りを他者にもっているのだが、その不合理を説明されても、心の奥底が納得しない。それはこれほど苦しいのだから、自分にはどうしようもないのだから、相手にも責任があるだろう、なぜ、助けないのか、なぜ、自分たちだけ幸せであろうとするのか、不公平で、卑怯であると思わざるをえないだろう。
さて、このような人に自分の根底だと思っている信念をかえて、別人になれというのだろうか。そして、本当にそんなことができるのだろうか。あるいはそんなむごいことをしないといけないのだろうか。
そうではなくて、問題は重しになっている「ストレス概念の塊」をどうやって消していくかであるが、その概念と格闘しても、それはどんどん大きくなって、結局、消し去ることなど、できない。気にすればするほど、さわればさわるほど、実体化して、抵抗していくだろう。
だから、これまで進めてきた、主体性訓練がそれを溶かしていく、それにかわる新しい概念を生み出していく、調和型概念の塊を生み出していく。
基本は、身体と感性であり、精神的主体性の発揮である。いつも、その基礎に戻りましょう。
ストレス概念はほっておいて、基本に戻るのです。
ある意味、現代、はやってきた、マインドフルネス、古来続いていた座禅や瞑想の伝統は、この基礎を太くして、ストレス概念の塊とアクセスしない取り組みだと思う。
そのうえで、さらに主体性訓練から、調和型概念形成をすすめていく。
すすめるとは、それを表現し、取り組み、生きる姿勢にすることだ。
すると、体験になかで、ネガティブにふれて、疲労がきっかけ、傷ついた対人関係がきっかけ、仕事の失敗がきっかけかもしれない、でも、そこから傾きがかわって、おきまりのストレス概念の塊に飲み込まれる。
すると、まっくらな中で、出口もわからなくなる。すると、自分の言動が反応的になり、認知をゆがめ、行動をゆがめ、意志をこえて、破壊性や極端な態度になり、人間関係をゆがめ、仕事を失敗させる。さらには自己嫌悪、さらに自信をなくして、主体性を失ってしまう。
こうなると、ストレス概念の操り人形、マリオネット、絶望がやってくる。
だから、呼吸をする、姿勢を整える、感性を蘇られる・・・・そして、精神的主体性を回復さえて、取り組みをすすめ、そして、調和型概念のところに戻ってきて、それに包まれる。
それは、様々な呼び名で言われてきたものだろうが、創造した現象世界を調和させるものであって、神といってもよいし、聖なるものでもよい、宗教臭がいやな人は、統一、ひとつ、でもいいし、調和の概念でもよいだろう。
では、これを神とすると、ストレス概念の塊が悪魔なのだろうか。
本当はそうではなくて、神も悪魔も表裏一体、概念形成という自由な力の現れであって、本当の神は、すでにのべた実在の世界であって、この現象、概念世界にはない。
実在世界の反響を主体性をもって、現象、概念のせかいに、神や悪魔として創造しているだけであって、宗教臭をのぞくと、ストレス性概念、つまり不調和型概念と、調和型概念の相克があるということだ。
闇が深くなると光が増すように、光が増すと、闇が深くなるように、これらは支えあっている。
つまり、不調和型概念があるから、調和型概念が強くなっていく、その逆もしかりである。
そして、いずれは、この両者をみつめている実在の視点(不可知であって説明もできないが)にいたるのだろう。
だから、大きい意味では、この不調和型概念と、調和型概念もまた、主体性訓練の一環であり、主体性の極致が自我を超えて、概念世界をこえて、実在にむかうのだろう。