ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

自分らしくとは

どうしても、LIFEを構築・創造していくときに、自分とは何者かと問うてしまうのが、現代社会の傾向である。

それを無視して人生を創造すれば、自分を裏切り、葛藤がうまれ、幸福になれないというのだろうか。

それほど、個性の重視を旗印にしているのはなぜか。

自分を育てていく営みは、祖先から受け継いだものや、周囲からの働きかけであり、恩といってもよいが、今は、それに先立つ「自分の本質」があって、それを無視した働きかけが人生をゆがめるのだという仮説を持っている人が多い。

たしかに、幼児期、成長の早期を生き抜くために身に着けた信念や行動パターンがその後の人生に役だつどころか、苦しみを生むことがある。

それをもって、上記のような「本質をゆがめた」という非難がうまれる。

その意味するところは、この文脈でいえば、大人になって、将来的にも通用するような信念や行動パターンを身に着けるように、働きかけをすればよかったのに、あえて、ミスマッチが生まれるような育て方をしたという非難である。

仮に、現代社会の価値観をもった親が、江戸時代の身分社会にあって、子育てをすれば、家庭の中ではいざしらず、社会に出てから子どもが苦しみ、社会に合わせているのに、自分を偽っているという姿になるだろう。

それを「本質」をつぶした、というのは当たらないと思う。

この問題は、親がよかれと思った、あるいは不作為に、かかわったことが、周囲の人間関係や、社会のなかでの適応に不利に働いたということだ。

あくまで、時代性のなかで、子育ても、自己成長もあるのだと思い知らされる案件だと思う。

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では、自分の変わらない本質とは何か。それが人生にとってどれほど大切なのか。

いきおい、能力の問題とすり替えられることも多い。

自分の特性、傾向、能力に従って、人生を創造すれば、有利だろうとか、うまくいくだろう、逆に、もともとの傾向にさからえば、失敗するだろうと。

たしかに、芸術やスポーツでも、ビジネスでも、そのような才能と言われるテーマは横たわっているかもしれない。

しかし、才能もまた、環境のなかで、磨かれなければ光ることはない。

その意味で、自分が早期発達の段階にあったとしても、遺伝的な傾向と、やはり環境の合成となって、それに先立つ本質を想定することは難しいのではないか。

それに、人生の創造は、職業選択や、成功、といった狭義のものではなくて、どのように生きるかという人格的な問題、価値観の問題になっていくのだから、赤ちゃんとしての傾向は、そのままでは大人になって使えない。むしろ、個性のもとになる本質よりも、価値観を身に着けていくことが重要なのではないか。

だから、素質、原石をみがくという言い方よりも、価値観を体験の中で育てていくという視点のほうが重要だと私は思う。

しかし、成人して、社会的に生き辛いと訴えている者は、幼児期の親との関わりのなかで、よい人生を送るために必要な信念体系を得ることができずに、むしろ、苦しみを生むような不適切な信念を得たので、いくら、内省しても、分析しても、自分を表層的に変えようとしても、その苦しみから抜け出せないと訴えられる。

ここで、言えることは、価値観を時代の中で、各自が育てていくといっても、その基礎となる信念は早期の段階で構築されていて、それを成人してから書き換えるのは容易ではないということだ。

人間は積み重ねの学習をするので、前に正しいと認めたものの上に新しいものを築いていく。だから、早期に不適切な信念や行動パターンを学習した(その時点では適切な信念と行動パターンであるのだが)、そのうえに、異なったものを乗せていくことはむずかしい。

人格主義の価値観構築が、ある人にとっては、苦痛で、実効性がないと言われるのは、価値観の前提となる信念体系が、新しく取り組む価値と「断裂」しているからだ。

それが簡単でないことは、異文化の人が新しい文化になじむのに、苦労することを思えば、簡単に想像できるし、異文化以上に、不適切な信念の場合には、断裂が大きいだろう。

この問題を人格的なトラブルととらえて、心理カウンセラーや心理療法家が「治癒」を目指すのか、あるいは、この状況が自分だとみとめて、生き方を探していくのか、(苦痛をかかえながら)、それとも、これは個人と親との関わりではなくて、実は、時代精神の回転によって、時代的に生じている問題の「典型」だととらえるか、その立場の違いによって、対処も変わってくるだろう。

私は、一つ目、二つ目の取り組みをしてきて、ひとつの挫折を経て、3つ目のテーマとして挑んでいるところだ。

そのうえで、提案したいのが、早期の信念体系や行動パターンから離脱して、新しく価値観を育てていくときに、邪魔をするのが、個性主義だと考えている。

普通は、早期の信念は変えがたいので、それを「自分の本質」だと仮定して、取り組んでも弊害はないだろうが、そこに断裂や不適切な要素があるとなると、それを自分だとして、その自分を変えようとするのは、固めて、崩すという相反するテーマを行っているように思える。

だから、そもそも、本質的には「自分」と確定できるものがないという立場のほうが、この価値観の問題へは向き合いやすいのだと考える。

現象は、本質の世界を感覚でとらえて知覚して構成したものであり、物質もそうでないものも、ひとしく、その個人が創造した世界、個別世界である。創造に飛躍や段階があるだけだ。

しかし、その創造の主体は不可知で、何者かを知ることはできないが、実在の世界に根を張っていることは間違いない。その意味では、私たちは自分のことを知ることはできない。もちろん、それ以外の実在の世界もまた、知ることはできない。

私たちにできるのは、人間としての主体である自分が創造した個別世界の中でのことだけで、科学法則であれ、日常の体験であれ、実在を扱ったのではない。

つまり、ここにおける「自分」は様々な見方があり、定義があり、そこについて、分析や法則の発見もありえるだろう。しかし、それをつかんでも、だから、うまくいく、正解になるというものでもない。

大切なことは、生み出した「生命」「生活」「人生」の集約である、LIFEが、バランスがとれ、調和的で、満足できるものであればよい。

ここにおいて、このLIFEを支えている背後の実在の世界を私たちは知ることもできないが、たしかにあることだけは確信できる。LIFEの変化やLIFE内の発見によって、実在の働きを推し量るだけである。

同様に、実は、自分の個別世界のなかでは、自分が創造した「他者」が存在しているが、その他者の個別世界がどのようなもので、そこで、自分がゲスト、他者としてどのような姿をしているかもまた、不可知であり、知ることはできない。

あくまで、自分の個別世界のなかでの他者を観察して、関わり方を工夫することしかできない。仮に、相手の個別世界はこうだろうと予測したとしても、それは自分の個別世界のなかで生み出されたものにすぎない。

こうして、LIFE、つまり、個別世界を実在世界の何かが「主体性」をもって創造している、その姿を観察して、実感することはできる。だから、自分の本質や個性をみるよりは、LIFEをみるほうがよいだろう。

そして、実践的には、LIFE、個別世界を創造している実在世界とそこにある主体性の中心となるもの働かせ方が大切だということになる。

不適切な信念が自分の根底にあるというのではなくて、それをいまだ、創造しつづけている主体性があるので、それを異なった創造の方向性に変えていこうということだ。

「いや、そう思っても、変えられないから、苦しんできたのだ」と反論されるだろう。それは信念を変えようとしたからだ、そうではなくて、主体性の働かせ方を変えようと言っている。信念を変えるのではなくて、LIFEを変えようといっている。

信念というものも、個別世界という自分が生み出したものから抽出して、仮定したものであって、実在ではない。ラベルをつけて、ラベルを変えようとしても、何かが変わるものでもない。

「自分」「信念」「LIFE」「人生」「生活」「生命」これらも、すべて概念、ラベルであって、本質とアクセスしている「個別世界」ではなくて、上書きして定義されたものにすぎない。

仮に時間も空間も概念だといったとする。しかし、時間をないもの、空間をないものとは思えない。さらにいうと、個別世界の恒常性もまた、信念で支えられているというが、そのような姿で創造され続けているといってもよい。

だから、主体性が変質して、異なったものが生成されると、幻覚と幻聴、非日常的な覚せい剤LSDでゆがめられたような世界が現出するだろう。

そもそも、人間の個別世界、私の個別世界が、気に入らないからといって破壊するのは、ちょうど、織物の糸をほどくようにして、何もなかった、模様も、図柄も厚みを肌触りもなかったということに等しいだろう。

有限の生を考えたときに、このテーマは果たしてLIFE創造にとって重要だったのか。

かつては、せめて人間は幸福でありたいということは共通していたと思うのだが、今は、それさえもあやしい。

なんのために生きるのかという問いもまた、LIFEをゆがめている。

広大なLIFEを小さな「言葉」で集約できるはずもなく、LIFEの小さな部分のために大きな全体があるという倒錯した考えもまたおかしい。LIFEな複雑な意味体系でもある。

主体性の根源である実在の世界も知らず、他者の個別世界も知らず、自分のLIFE、個別世界についても本当のところ、どこまで理解しているか、わからない私たちが、それを自分の知っている小さなことに還元して、何のためにと問う愚かさ。

もっと、人間は謙虚にならないといけないのではないか。

広大な実在の世界の一員であり、それぞれが独特な個別世界を創造していることは確かだが、それを自分勝手にしてよいとはだれが言ったのか。

自然界の生き物すべて、虫や微生物でも、全体のなかで役割を果たしている。

自分らしくもいいだろう、人間らしくもいいだろう。

しかし、そのしっぺ返しを受けているのも、また、人間であると思う。

また、価値観の世界にいたっては、歴史のなかで、先人が掘り起こして、生み出して、発明して、残したものを受け継いでいるのが私たちだ。

それを大切に育て、次に、よきものとして渡していくことも大切だろう。

生命、生活、人生というライフの要素は、それぞれが、使命を含んでいるといってもよい。

人生とは、なぞに満ちている。自分を問うても、自分が分かるはずもない。

生とは死とは、幸福とは、人生とは、・・それを考え続けるのも人間だろう。

しかし、けっして、最終的な答えを得ることはない。

こうして、人間の徒労のようにみえる営みが愛すべきことであり、それが生きることでもある。

正しくて、何でも分かっているという人たちがいる世界と、謙虚に無知の自覚がある者同士の暮らしはどちらが豊かだろうか。

分からないからこそ、求め続ける。

やる気や意欲は、欠乏から生まれる。

人間の幸福は欠乏から無知から生まれる。

たしかに、前の時代の欠乏について、それを求めるなかでの生き甲斐や幸福があっただろう。

そして、豊かになった、ゆえに、やる気も幸福も消え去った。

しかし、本質的に人間が何も手にしていないこと、無知であること、あるいは人生が苦であることは変わらない。それが人間の生き甲斐になり、そこから幸福が生まれる。

この当たり前のことがなぜ、消えてしまったのか。

それは錯覚が埋め込まれたからだ。

自分のことが分からないからだめだとか。

人生が分かっていないからだめだとか。

そして、情報で不足を暴力的に満たそうとして、充足したと思い込んでいるからだ。

2500年前の釈尊の時代と実は、何も変わっていないのに、人間は何も知っていないのに、何も手にしてないのに。

この文章は、最初、自分という本質を見出して、それで人生をつくるという現代のアプローチへのアンチテーゼとして書き出したが、もっと本質的には、「分かりようもないこと」を「分かったと思うこと」が問題だと言い換えてもよい。

不可知であること、無知であること、無力であること、そこに立ち返って、スタートすることだ。

そういえば、面談などで、相談者の方が、「自分のことは自分が一番わかっている」という立場で向き合ってこられ、あとは、どうやって変わればよいか、それだけだと言われることがある。

ここに「分かっている」からスタートしている立場、そして、それゆえに、罠にはまっていることがよく表現されている。

では、私のような仕事では、分からないことを、分かったように話してよいのか。あるいは、分からないということに、どう向き合えばよいのか。

分かることが可能なこと、不可能なことの選別が重要だろう。あるいは、人間にとっての「分かる」の意味や限界。

そのうえで、分かりようもないことにたいして、どのように主体性を働かせるのか。

実在に属すること、他者のことは分からない。未来のことも分からない。

ただ、現代社会では、他者に分からないようなことを、分かるということが、人生で成功する秘訣だという風潮もある。

分からないことを分からないこととして、生きる、その力については、あまり言及されていない。

ここから再構築していこう。