内側と外側 ストレス
ストレス問題を簡単に表現する方法をずっと考えている。
ひとつのまとまりのあるものに、丸く線を引くと、その区分によって「内側」と「外側」ができる。
内側とは自らの影響の及ぶところで、外側とは及ばないところ。
生命とは、この内側と外側の「落差」によって成立している。たとえば、「温度」を考えてみると、基本的には「身体全体」を一定に保つことができるが、外界は別の要因で温度が決まっている。
皮膚という境界において、温度差は、寒冷のストレス、灼熱のストレスとして発現する。(もちろん、この温度差がなくなった状態は身体が物質化した「死」の状態となる)
この温度にかかわるストレスへの対処は身体機能としては次のとおりである。
寒冷の場合、毛穴を閉じて体温の流出を防ぎ筋肉を震わせて熱を産生する。
灼熱の場合、毛穴をあけて熱を放出し、汗の気化熱で冷やす。
もちろん、文化生活としての対応もしていくが、その場合は境界が動いて、温度は「室内」と「室外」の落差になる。室内を維持するのは扇風機・冷房か、ストーブ・暖房となる。
この単純な図式は、心理社会的な分野も含めて応用範囲が広いと考えている。
今日、やる気、元気といわれているものも「生命」の在りようの一つだから、この内側と外側の「落差」つまり、ストレスがなくなれば、消えていくだろう。
ただ、ある境界がなくなって、内側と外側だと思っていたものがつながったとする。しかし、今度は、そのまとまりを内側として、さらに外側が出現している。
私が心身二元論を避けて統合しようとしてきたり、心と体の調和を目指してきたり、自分と他者のつながりを強めたりすることの大切さを伝えてきた、そのすべてが生命の仕組みであり、落差のコントロールであり、ストレスの活用だったということだ。
その意味で、自分の出来事、体験の世界を一つだと考えたとしても、それを内側として、その外側には、不可知の世界が広がっているということもまた、必然として語ってきたのである。
このような思弁的な話が、日常の役に立つのか。
それを暮らしに活かそうとするのが、新しい人間学だと考える。
この区分や境界は、恣意的なものであって、どのように立てることも可能である。そのときどきの価値観や文化、知識によって変わりうる。
すべては関係性によってつながっているという意味は、この区分の話を言い換えたものである。
余談だが、今日、「自分の心」に焦点を当てすぎて、それを内側として、その外側との区分、境界のストレスが高まっていて、それを調和させるというよりは、外界の圧と戦い、どうやったら「自分の心」が守れるか、と考えている人が増えてきた。
すべてを「心理学者」のせいにするのは、今の経済状況を「経済学者」のせいにするのと同じで、やや、厳しすぎるかもしれないが、心理学者は、自分の専門を守るために、無自覚だが、この境界を強めていったという罪はあるだろう。
自分の心を、さらに「内側」と「外側」にわけて、本当の自分が出せていない、外側から押し付けられた自分の中にいるというような観念もまた、現代人の通念となってしまった。
この区分は恣意的なもので、いかようにも、線はひくことができるのに、それを動かしていく主体性も失ってしまったようだ。
心の内と外を融和、和解させ、さらに身体と和解させ、他者や社会と和解させ、さらには自然界や不可知の世界と和解させるというような迂遠な道を誰がセットしたのか。
ストレス問題は、このような迷いの道を断ち切るために、現れているのだと考える。
私も力不足のゆえに、うまく、まとめて、公表していくことはできないが、志は以上のようなところにある。
ゆえに、私は心理カウンセラーでは断じてない。
人間学の専門家として立とうとしている。