熟成のとき
ライフストレスの根源について考えてきた。
ライフ創造、生きる力といっても、その本質は何か。
ストレス問題という切り口はこの問いへと私を導いてきた。
健康や幸福、成功というような願いもまた、このストレス問題と表裏一体であると考える。
有限と無限という表現があるが、一方で「可知」と「不可知」という区分もある。
あるいは、主体性の及ぶところと、及ばないところ、つまり自力と他力という区分も。
そして、私が現在の結論として大切にしている主体性とつながりの回復という考え方。
ここにも切り口が潜んでいる。
すべては関係性であり、空であり、縁であるとも言ってきた。
このように、そこにあるものに光を当てると、当てた方向によって乱反射して、異なった姿を見せるように、知識、知恵の光では、その全貌をとらえることはできないのか。
まるで、何度も登山して、ルートも、装備もかえて、登坂して、失敗を繰りかえした登山家のように、山の上のほうは霧と雲につつまれて、姿を現さない。
おそらくは、「存在論」として、この姿を書き留めることは不可能なのだろう。
なぜなら、その存在の中に人間も、私もいるのであって、存在の外から眺める方法などないのだから。
こうした一方的な矢印のような「目」を捨てることも大切なのだろう。
もとより、図、イメージ、言葉、何をつかったとしても、その制限によって、この発掘作業はゆがんでいく。
それは承知で進んできたのだが、こうして、ぐるぐると同じところを回っていると、諦めそうになる。
つまり、既存の言葉ではなくて、イメージではなくて、新しいものを生み出そうとしている。
私たちの理解とは、図と地の関係において、境界をもうけて、囲んで、他と比較することで進んでいる。つまり、分割が得意なのだが、それを統合した、一つのものだと考えると、表現していくなかで、バラバラと崩れていく。
いきおい、「ワンネス」とか「ひとつ」とか、根源という言葉を使いたくなるが、それも、自分が知っているものをまとめて一つだと言っているにすぎず、広大な不可知の世界を取りこぼしている。根源といえば、その流れの流域の広大な広がりを許してしまう。
だから、私は、今、ここの、出来事・体験から出発することとした。
この出来事・体験は、各自のものであって、私の出来事は、他者の出来事とは異なるが、唯一のリアルな立ち位置である。
もちろん、この出来事を「私」が「花」を「きれいだと思った」ので、「摘んで持ち帰った」というふうに捉えると、私という個体。その花という対象。そして周囲の環境。きれいだと思うという「私の心」、そして「摘んで持ち帰る」という「私の行動」に分化していく。
出来事・体験の世界とは、未分化の世界である。
したがって、この体験の世界を支えている不可知の世界の力もまたここに浸透したままであって、それを「私が花をきれいだと思ったので摘んで持ち帰った」という体験として切り取ってはいない状態だと考える。
私は自然の摂理、社会の連関、価値体系としての精神的財産という親から生まれた「自然の子」「社会の子」「価値の子」であり、まだ親子が分離していない。
花もまた根源と分離していない。
ここにあるのは、「変化」であり「安定」であり、それを「存在」という。
可知の世界は、不可知の世界が支えている。不可知の世界は可知の世界が支えている。親がいるから子がいる。子がいるから親がいる。
このように「関係性」が存在や非存在を生み出している。
また、時間は、個体である私や対象となる「花」が分化しているから、生じるものであって、この個体の運動の速度と距離である。
したがって、未分化の体験では、あるいは不可知の世界が包んだ全体としての世界では、「個」として動くものがないので、そこには時間がない。
あるとするならば、この子であるそれぞれの人の、生命、生活、人生、つまり出来事の見える部分を動かしている原動力であり、人間的な表現をすると、願いや思い、決意や意志、科学的にいうと「原因と結果を司っている」力である。
この見えない世界の思いや力、ルールを古人は、天道、天理、神の声といっていたのだろう。
では、ストレスとは何か。
ストレスとは、この一つのものが、分化していったときに、その区分が境界となって、全体の動きからズレていったときの摩擦であり、境界にかかる圧力であり、そのために境界の内側にかかる負荷である。
ストレスには、「内側」と「外側」そして、境界がある。この境界が単なる「区分」として、調和的に内も外も動いているときに、統合といい、ストレスの低減といい解消という。
しかし、そうして、解消されたストレスもまた、内と外の動きの違いによって、常に生み出されているのであって、大きな意味では、内と外の調整過程の一部として考えられる。
もっといえば、内が外にむかって開いていくことがエネルギーなので、この内と外がいつも釣り合って状態になると「死」であり、「生」とはストレスのことでもあります。
生が死に向かうというのは、この落差がなくなって、エネルギーがなくなっていくことでしょう。
よく、やる気を出すとか、生きがいを見つけるといいますが、それがどこから湧いてくるのか、本当のところを分かっている人は少ないです。
外と内の落差、ストレスがあるから、湧いてくるのです。
この落差が、情報である場合には、人間の生は、「知りたい」「真理を求める」「認知欲求」として展開していきます。
この落差が、生命の維持に関する「栄養」の不足ということになると、外界にむけて、食欲として展開していきます。
自分の住む家を手に入れて、外界との境界が「家」になると、今度はこの家の中の安全と、外の危険という落差を埋めようとします。
家や職場で役割交流としては一体になっても、そのなかで、境界や分断があると、その感情、心理的な交流において、落差を埋めようとします。
さらには、大きな社会とつながったとしても、その中で自分が役に立って、尊重されるかどうかもまた、境界の内と外の落差を埋めようとすることであって、
つまり、外発的、内発的というふうに分類される欲求ですが、このように内部と外部の落差をうめて調和させようとしていることは同じです。
問題は、内部が「自分という身体とそれに付随する心」とは限らず、様々な大きさで内部と外部を考えないといけないということです。
心身二元論も、心を内部、身体を外部、あるいはその逆であっても、その落差をうめていると考えればよいのです。
そして、この体験世界全体、ライフ、生命、生活、人生というものが自己のものに限定されたときに、今度は他者のライフとの境界の問題が出てきます。
しかし、所詮、それぞれのライフは小さな島であって、巨大な不可知の世界という海がつながっていることに気づいていき、それぞれのライフが、その不可知の世界との境界で落差をつくっていて、それを埋めようとしていくことが古人のいう「悟り」であって、その境域では、お互いがつながっているということです。
また、考えていきます。