知りえないことのある幸せ
人間は経験を積み重ね、知識を増やすことで生存圏を広げ、豊かな生活を手にしてきたがゆえに、「知ること」の価値を熟知している。
そして、情報社会にあっては、誰もが手軽に知識を得られるようになり、子どもから大人まで誰もが「知っている」という自覚を強めているだろう。
こうして、知の光で無知蒙昧な暗闇を照らしたことで、私たちは幸福になれそうなものだが、現実はそう簡単ではない。
ソクラテスの時代から同じテーマに向き合っているのだが、誰もが自分の知っていることを大切な知識だと考えて満足しており、本当に大切なことについては人間が無知であること。
二千年以上のときをへて、科学以外でも、人間が生きるうえでの知恵は深まったのではないかと思うのだが、そうではないようだ。ここでは深く論じないが。
私は、この「知っている」という態度が、現代人の幸福を奪っているのではないかと考えるようになった。
たとえば、神や仏を信じていた時代には、それは人間の理解を超えたものとして、畏敬の念をもって敬われ、信仰されていた。
神や仏が死んだとされたのは、不信仰ゆえではなくて、人間がすべてを知ったと思い込んだ傲慢ゆえである。
人間が大切にしている、人生上の豊かな感情、やる気、頑張り、充実感、達成感、それらは、結果の分かり切ったゲームのような中では起きようもない。
しかも、その結果が悪いと予想された「負けゲーム」でよい感情が起きるわけがない。
それでも、どうしたら、自分らしく、成功して、幸福になってと、諦めきれず、誰も知らないような知識を求めるのだが、その知識で成功するのは一部である。ある意味、なぜ、自分が失敗して不幸であるかも、理由があり、それを理解しているということだろう。
この「分かっている」という態度はくせものである。しかも、ダメな理由、無理なことも分かっていると。
もはや、人生には余白も、フロンティアもない。せちがらいことに、死後の世界や霊界までも、誰かが事細かに説明して、分かったことになっている。
このような人生で、誰がやる気やわくわく感を持てるだろうか。
地球は狭くなった、宇宙も狭くなった、精神世界までも・・。
しかし、本当にそうだろうか。それは分かっていることをすべてだとしたからで、本当に大切なことは何一つ分かっていないのに。
感覚によって実在を加工して、人間としての「個別世界」を有しているが、もちろん、それは知っている、分かっている世界になる。(分かっていることを積み上げて創るので)
その背後にある実在の世界について、人間は知りえないし、他者の個別世界も、本当のところ知りえない。
それゆえに、私たちは生きる意味をもつし、探求し、チャレンジし、しっかりと生きていく意味がある。
人間が知っていると思っている世界をつつむ広大な実在の世界は、かつて神や仏と呼んだものより、さらに広大で不可知の世界である。
神も仏も、「個別世界」の中で発見、発明したものだから。
主体性は、この個別世界の背後の実在の世界へと射程をむけている。
不可知ゆえに、生きるという姿でしか、主体性の発揮でしか、実在の世界にふれることができないから。
ここから再出発したい。