ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

客観的世界の侵食

私たちは、自分から発した視線が、今度は他者からの視線として戻ってくる。

個人レベルでは、共感性、表情筋による感情の伝播、あるいは、ミラーニューロンシステム、つまり、他者からの思いという概念を実感として受け取る機能がある。

それがモデリング、観察学習として成立している。

そうやって、幼少期から、おとなによって習慣づけをされて、これはなんだと、名前のある物質、物を知っていく。それと同時に、時間の概念、空間の概念、そして、自分と言う肉体とそれにこもっている自我という考えを得る。

また、他者の肉体、そして、他者の心と言う概念を得る。

これらは、実在の主体からみれば、すべてが、概念創造であるのだが、内部に閉じ込められると、それが分からなくなって、自分、他者、精神、物、それらが実在、恒常であるかに思えてくる。

こうやって、自我という檻が完成する。

すべては、人間としての自分の世界であるのに、その中に、さらに小分けにしたように、自分、他者、物、精神、などを箱庭のようにつくっていく。

そして、それを合理的、客観的なものとして、成立しているという信念をもつ。

それは他者からのまなざし、視線、見方でできている。

本来は、実在の点から光のようにひろがった、主体性の展開としての人間としての自分の世界であり、ここは、柔軟であり、自由であり、そのまま、主体性そのものであって、それを包んでいるのは、不可知の実在である。

しかし、このキャンバスができるやいなや、ここに、他者からどうみえるかという視点で、すべてをかいてかいてきた。

外苑の他者の眼がこのキャンバスを取り込んで、その光は、内側へ内側へと光が迫ってくる。

そして、最後の砦のように、自我が残って、客観世界、状況、環境、他者に拮抗して、自分が境界をもって残っている姿になる。

しかし、この光は、さらに内部に浸透してきて、自分だとしたものも、客観の光にさしぬかれていく。

そして、すべてはこの他者の眼から発した光(と思っている自分から発した反射光)は、自分の内部まで、さしぬいて、さらには、その奥までさしぬいて、そして、自分がこれだと、外部から規定されてしまい、主体性は、フィクションになる。

癒し、カウンセリング、共感、理解、これは、この外部からさしぬかれている光をゆるめてほしい、すきまをつくってほしい、呼吸をしたいという要請に応えたもののように思える。

つまり、あなたは何者だと問わない。あなたはどうするのだと問わない。あなたは、なぜ、そうなのだととわない。

そして、自分が自分であると、他者の光の圧力の中で、最後に守っているもの、それが無価値だれ、愚かであれ、そのままで認めてほしいという要請である。

これは主体性に似て、そうではない。

結局、他者の光によって、自分を立てようとしている。

安全な他者の光への希求であり、その裏がえしとして、危険な他者の光からの離脱、救済である。

しかし、ここから、主体性の世界が生まれるだろうか。