ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

ライフストレス研究の構造

これまで、その人にあった処方が大切だとは考えていた。

しかし、その背後には普遍的な正しさがあるとまだ想定して、それを模索していた。

ところが本当は、その人にあった処方だけでなく、理論、正しさもまた大切なのだ。

そして、その人にとってではなく、「その場面」に応じて、正しさも、理論も、考え方も、処方も異なるのだと気づいた。

ときには、自我をまもり、自意識に焦点を当てることもあるだろうし、ときには、自分とは何か、アンデンティティをはなれ、自分の不安や葛藤からはなれ、なすべきこと、理想、価値にむかって、行動化することも大事だろう。

身体に注目してメッセージを受け取ることもあれば、自分で考えて決めることもある。

健康のために、「認知」や「行動」をかえることも大事だろう。しかし、健康のためにということをやめて、人生を考えることもある。

こうやって、何が正しいかという一つの答えを求める営みは、溶けていき、そのかわりに、その場にふさわしい最適解を求めていく営みが見えてくる。

その意味では、固定化した、やり方、正しさ、の解除を手伝うこと、今の世界を止めること、見直す柔軟性もまた、必要になる。

そのうえで、場面において、知恵を引き出して、生命、生活、人生を創造していくこと、構成していくこと。

このようなことが可能なのは、その場面、場、現実が問いを発している問題であると同時に、知恵の塊であるからだ。

植物も、動物も、人間も、それぞれのやり方で、この「智慧」から何者かを引き出して、生きている。

人間は人間のやり方で、私は私の、あなたはあなたのやり方で。

そこには、無限の叡智たる場からみれば、それぞれに部分にすぎず、不完全なものだが。

こうしてみると、ライフストレス研究とは、「人間」が「現実」から「智慧」を引き出す営みの研究ということになり、その不完全性が問いとなり、ストレス、ゆらぎ、ゆがみ、不調和を見せている。

この「智慧」を「愛」と置き換えてもよいだろう。

正義と慈悲には知恵が込められている。

こうなってみると、あらゆる場に通用する方法などなく、あらゆる人に通用する方法もないので、学問的な探求や、構成ができないことになる。

逆にいうと、 人間にとっての知恵を学問化、普遍化、しようとする営みにも問題があるということだ。

かといって、何もしなければ、人間は、自分が正しいと思う考え方ややり方を、だれにでも、どのような場でも使おうとして、その限界や制限を超えてしまっている。

ここで必要なことは、人間が見出した、それぞれの考え方の適用範囲や効用、注意点、そして制限や限界を明らかにすることではないだろうか。

人間が引き出した知恵の分類と効果測定、制限と限界の発見によって、使いこなせるようになるのではないか。

しかし、おそらくは煩瑣になるであろう、そのような作業が学ぶ人の利益になるだろうか。

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とはいえ、それぞれの人は、場面、場面で、選択を繰り返している。実践のなかにあって、生きている。

そして、そこにストレスが生まれている。

ここにおいて、ストレスを消すのが目的ではなくて、よりよい、最適解にむけて、主体性を働かせて、その人が新しく生きていくことが重要である。

つまり、現状の場面に適用している理論、正しさ、見方、方法、の問題点の発見と、あたらしい選択についての援助が、ライフストレス研究の仕事になる。

現実が変わりえないものか、現実は自分が生み出していて変えうるものなのか。それもまあ、場面によって使い分ける見方、考え方にすぎない。

現代社会は、何が正しいかを戦わせていくなかで、それぞれがどんどん意固地になって、柔軟性を失っている。

いや、自分はこだわらない、意見をもたない、だから柔軟だと反論するかもしれないが、それは、固定化である。ある面では意見をもち、ある面では持たない、ある場面では意見はもたないが、ある場面ではもつ、それが柔軟である。

こうやって、人間の生きかたを解いていくと、正しさがなくなっていくが、そこに残るのは、目の前の自分を含んだ現実であり、ライフである。

しかし、現実を重視して、自分のイメージを否定しているのではない。

なんであれ、あるもの、ないもの、すべて、それが「智慧」の塊であり、そこでは生も死も、部分にすぎない。

だから、人間には及ばない「叡智」についての「決めつけ」「議論」を停止して、人間がそこから引き出したものをうまくよく使うということ。あるいは、よりよいものを引き出すこと。

このようなテーマのために、新しい思考法や構造を生み出していく必要がある。