叡智との付き合い方
結局は、「叡智」がある。
そこから、すべてがうまれ、人間も生まれ、それぞれの生き方が生まれている。
であるならば、「叡智」のなかに、人間の生き方がある。
叡智の能動性に注目すれば、「愛」となる。
そこに、人間への「願い」がある。
東洋で、天地自然を人間の生き方の手本としたのは、このような叡智への信頼があるからだ。
私たちの「選択」のまえには、人間がひきだした「智慧」の不完全なかけらがある。
そして、重要なのは、それをどのように使うかという基本であり、使い方であり、限界を知り、制限を設けることである。
ときに、エゴに生きることにも意味があるが、ときにエゴをはなれて公に生きることも必要だ。
倫理や道徳という型ではなくて、「叡智」が人間に求めているものは何か。
それは、叡智にむかって近づいていこうとする「進化」である。
そして、その途上にさまざまな人間が発見した生き方があるということで、それは踏み越えるもの、乗り越えるものとして前にある。
それは進歩がよくて保守がダメだということではない。進化のためには、保守しなければならないこともある。
叡智にむかっていくこと。そのために愚かなことを繰り返しているのだと思う。