ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

飽和から崩壊。そして創造。

20年にもわたり活動をしてくると、その試行錯誤や経験が積み重なって、様々なものが飽和してきて、それに足をとられて、新しい出発ができなくなる。

ひとつの冷却期間をおいて、今、自分の活動を評価してみると、もっとシンプルに自分にできることをまとめて、社会とのアクセスを仕掛けていく必要があるときづく。

私が注目しているのは「相談業務」の可能性の拡大である。講演、研修、授業、出版などの「集団教育活動」よりも、個別相談のなかに可能性をみているということだ。

仮に、集団教育活動が存続するとしたら、そのバックボーンとして、個別相談の充実があってのことだろう。

また、身体介入技法の可能性だが、個別相談の一部として是々非々で扱うものと考えている。

それから、相談業務、面談業務の中身であるが、カウンセリング、コーチング、心理療法、セラピーなどの区分を超えたもので、むしろ、それらの弊害を除去するものだ。

あるいは、面談の対象は、パーソナリティでないといってもよい。

面談は、生命、生活、人生を統合したライフそのものであり、そこから派生した心、人格を扱うのも時と場合によるということだ。

目的も、健康や適応や発達を焦点化しているのではない。

それらを含みつつも、トータルの「ライフ」の創造過程、日々の「選択」について、考察していくことになる。

自らの選択を確認して、さらによい選択をしていくための支援である。

当然、私の願っている仕事に合致する人もいれば、合わない人も出てくる。

困っているすべての人を救いたいという傲慢な願いは捨てた。

ネガティブな感情や考え、ポジティブな感情や考え、それもともに必要なもので、その意味では、成功と失敗、健康と病気、融和と反目、それらの出来事には不可避のものもあり、必然のものもあり、意味あることだ。

ライフの創造とは、それらを自分の願いのままに、動かしていく術ではなくて、動かせるもの、動かせないものを見極めて、選択を続けていくことだ。

たしかに、主体性の回復、選択できる力の回復というテーマもあるが、私は、その先について考えていきたい。

ストレスとは何か。

この文脈でいえば、ライフ創造における「選択」にかかる負荷のことである。

ライフの創造、つまり日々の選択には「負荷」がかかるし、その負荷を背負って決断をしていく存在が人間である。

そこには、正しいか、間違いか、成功か失敗かではなくて、どの選択にも「負荷」がかかるということだ。負荷がかからないような選択をつづけたつもりでも、別の意味での「負荷」が襲ってくる。

適度な負荷を背負って、ライフ創造を続けていくためには、その場に込められている叡智に触れて、そこから知恵や力を引き出していかねばならない。

本来、学問は、そのような場からの叡智や力をあつめて、伝承したものであり、それが、それぞれのライフの場において、役立つかどうかは、経験を重ねていくしかないのだと思う。

ライフストレス研究とは、この「負荷」によってしか、私たちは場の叡智を知りえないという意味のにおいて、「叡智」の探求であり、その実践であると言ってもよい。

それぞれの人は、自分のライフにおいて、自分なりに知りえたことを大切にして、日々の選択を繰り返している。そして、それによって負荷が出現しているが、仮にその負荷が過剰であるというのなら、その選択よりも、もっと妥当な選択がありえるのではないかという希望がある。

もっと、その場から、新しい力と叡智を引きだすことができるのではないか。

その意味において、ストレス相談業務とは、ライフの相談業務であり、仮に教育活動が付随するというのなら、その側面的な支援パッケージということになる。

企業の人的資源としての集団的、組織的な運用などに関しては、別に専門的な支援がありえるが、問題は、それを管理者の立場、リーダーの立場、メンバーの立場で、どのようにライフのなかで扱い、選択をしていくかという視点になる。

また、ここでいう「選択」は、行動の選択、思考の選択だけでなく、それを支えている「世界観」「理論」「技術体系」の選択であるということが重要である。

特定の理論のなかで、選択を工夫しているのは、一見、自由な選択にみえるが、それは、その理論以外を選んでいないということでもある。もし、それが原因で過剰なストレスが発生しているのであれば、別の理論を選ぶことも訓練すべきである。

ライフストレス相談の立場では、目の前の現実、場のなかにこそ、問いもあり、その答えもあり、力もあるのだと考えており、それに優越するいかなる哲学も理論もないとする。

しかし、一方で、その物言わぬ現実から叡智をくみ出すには、様々な思考方法が必要になり、それは不完全な不十分なものである。

人間は自分が知っていることで世界をみて、知らないこと、不可知のことを含めて考えることはできない。

しかし、そのような人間の限界とは別に、「現実」「出来事」「場」は、一体であり、人間を含んで、一つである。

つまり、そのような実在、永遠、無限にむかって、有限の人間が進んでいく営みがライフであると考えている。

そして、その不完全性が「ストレス」であるのなら、ストレスとは人間の別名である。