ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

シュミレーション失敗の原因

現代社会の人間関係のストレスが、お互いの相手に対する予測、シュミレーション、「心」のとらえ方がゆがんでいることが原因だと書いた。

しかし、私たちが相手のことを予想できるというが、それには限界があるだろう。

�@生まれ育った集団の価値観、文化、歴史、経験、習俗、道徳、倫理、常識、宗教、決まり事・・

それれが共通する場合には、予想も妥当性が高まるが、それを抜きにして、当てようとすれば、それは自分が相手だったらと、自分の世界を相手に当てはめるしか方法がない。

�A対話の積み重ねや、共通の経験、思い出など、関わりが深まることで、予測が当たりやすくなるが、それがないままでは、開きはどんどん大きくなるだろう。

�B人生経験の不足によって、相手の世界を想像する力がないと、ずれが大きくなるだろう。

とはいえ、社会的行為で求められる相手の言動の予想とは、それほど、複雑なものではなくて、自分の行動によって相手がどのようにふるまうかという予想であるから、心の奥深いものを扱っているのではない。

しかし、日常生活で、家庭、学校、職場、地域社会などで、それがうまくいかないのはどういうことだろう。

あるいは、うまくいかないだけなら、その失敗を経験として、予測を修正していけば、自分の欲求をかなえながら、相手も欲求もかなうという行為を見出すことは可能なはずだ。

しかし、現場の面談でみるかぎり、そのような具体的、実践的、建設的な努力をしていくという方向性の悩みではなくて、相手への好き嫌い、相手からの好き嫌いということが問題になっていて、「お互いに、欲求をかなえ合おうという」前提が崩れてしまっている。

集団の外部の人間であれば、あるいは極端な話、「敵」であれば、成立しないだろう。

嫌いな人、自分を嫌っている人。

その人と、お互いを理解して、心をつかんで、予想して、ウインウインの関係で、お互いの欲求をかなえあっていく。

その前提が崩壊しているのだ。

最初は、シュミレーションの難しさというテーマであったはずが、シュミレーションによって、相手が仲間足りえないと判断されたのちの「人間関係」について、どう遂行したらよいかわからないという問題である。

予防的には、嫌い、嫌われる、の関係になるまえに、シュミレーションの修正をしていくこと、再解釈が必要だが、いったん、線を引いて、相手の心をよんでも、よい行為を発見できないという場合が現代のストレスだろう。

社会的行為を出現させる調和的なシュミレーションと、社会的行為を困難にして、不安、不満、怒り、悲しみをもたらす、不調和的・破壊的シュミレーションがあるということだろう。

なぜ、破壊的シュミレーションをするのか。

それは、人間の生存上、危険な人、信頼できない人、疑うべき人、おそるべき人、それらを発見して、距離をおいたり、対策を講じることもまた、平穏な生活には不可欠なものだ。

従って、たとえば、家庭で、職場で、そのような危険な信号を受け取って、破壊的シュミレーションができた場合には、逃げたり、戦ったり、隠れたりといった対処が必要であり、そのまま関係を続けていくことは難しいだろう。

離婚、退職などが「合理的」でないように見えるには、「調和的シュミレーション」からすれば、極端で不可解な行動に見えるということで、「破壊的シュミレーション」が働いている場合には、それは正しいことかもしれない。

つまり、心理社会的ストレスとは、この調和的シュミレーションと、破壊的シュミレーションの違いによって区分されるということだろう。

実際の体験が辛いとか、不快だとか、ストレッサーの苦痛度を問題にするだけでなく、相手の「心」を読むことで、予測がどうなるかのほうが問題のストレスなのではないか。

刺激をあまりに数多く思い出すから、ストレスが増大する。イメージの暴走をおさえて、瞑想的に、集中する必要があると書いてきた。

しかし、その集中をやめれば、また、シュミレーションが始まるが、その嫌いな敵が、好きな仲間に変じることはないだろう。

つまり、過去の経験が苦しい、トラウマだとか、今の態度には傷ついたとか、そのような体験のストレスだけでなくて、そこから派生した、過去から現在、そして未来へと続く、解釈が変わり、このシュミレーションが耐え難いということだ。

本当は、人生物語とは、生活レベルのシュミレーションではなくて、ライフそのもののいのちの輝きであるのだが、混同されている現代では、破壊的シュミレーションが出現したということは、破壊的な人生を抱えてしまっているという苦悩になる。

職場でのたった一言が、友人とのほんの小さな体験が、なぜ、それほど大きなストレッサーになるのか。単なるイメージを繰りかえすことでの増幅ではない。

人生の解釈をかえてしまったのだ。自己否定の問題も、こうしてシュミレーションの変質から起きているといってもいいだろう。

私たちは、シュミレーションがうまくいかない相手を「線」の外においていく、それらの人を恐れ、憎み、嫌っている。だから、機嫌をとる、駆け引きをする、犠牲をみせて譲歩を乞う。

どうしたらよいのだろうか。

これらは、「解釈」の誤り、「予測」の誤りから生まれている。だから、再解釈をしていくしかない。

嫌いな人を好きになれというのではない。

自分の解釈を疑い、再解釈をする力を身につけてほしいということだ。

せめて、好き、嫌いを超えて、自分とは違う、自分にはまだよくわからない、などの線まで戻していきたい。

そのためには、「シュミレーション」の限界を知り、それが真実とは異なることを自覚しないといけない。

シュミレーションは常にやり直していくもので、そのまえに、前提となる「自分は相手を信頼する」「相手に役立とうと思う」「相手を愛している」という思いをこちらで創造することだ。

集団の仲間として認めないと、社会的行為も成立しない。読み合いのまえに、前提を固めよう。

前提が希薄で、自分の主体性で、信頼、貢献、希望をつくっていないのに、不完全なシュミレーションをするから、恐れ、疑い、偏見のなかで、嫌悪がうまれる。

シュミレーションでは、信頼、貢献、希望、つまり愛は生まれない。