ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

ストレスと人間関係の根本

このところの考察で、「シュミレーションの力」は不完全なもので、活用にも限界がある。

それをつかって、相手への信頼、貢献、希望、つまり愛を見出そうとしても、失敗してしまう。

シュミレーションの力は、様々な前提のもとで、成立しているのに、前提をなくして使うから、闇が深くなり、さらに恐れ、疑い、偏見が強まっていく。

いくら勉強しても、工夫しても、シュミレーションには限界があるとあきらめよう。

むしろ、かつては、同じ集団で、同じ神、価値観、文化、習俗。おきて、道徳、倫理、常識、歴史があったなかで、使えていたのに過ぎない。

そして、現代において、お互いがそれを共有していないことは、理解して、そして相手の立場に立って、シュミレーションをやりなおして、再解釈をしようとしてもうまくいかない。

それではやはり、前提となる仲間意識、共同体意識がないからである。

相手と自分の違いを認めて、考察することは、自分の観方を離れて、偏見を防ぐ意味では効果があるが、それでは、前提となる「共同体意識」はどこにもない。

大きな生命、大きな自然、存在の根源という不可知の世界を前提にして、お互いを仲間だと思うのは、人生上、哲学的、宗教的な意味でも妥当だが、「生活」レベルに落とし込むのが難しい。

生活レベルで、いかにして、相手を「信頼」し、相手に役立ち「貢献」しようとして、この関係性に「希望」をもっていくのか、愛があるのか。

それはこちら側の「意志」であり、熱であり、主体性の発露である。

にわとりが先か、卵が先か。

よいシュミレーションがあれば、信頼できるというだろう。しかし、先で、意外な言動があれば、それは崩れてしまう。

シュミレーションとは、別の、むしろ、前提となる信頼の心をどのように作っていくか。

それは、自分の決意であり、約束であり、誓願であり、主体性の極致である。

いぜん、主体性は自我をも超えると書いていたが、それは、シュミレーションの結果によらず、前提として、自分が相手を信頼するということだ。

でも、言動に傷つき、ゆすぶられ、シュミレーションがはじまる。

そこで、自分で、決意を固めるという繰り返しを行う。

では、嫌いで、不安で、苦痛なときに、好きになどなれるわけがないではないかと反論があるだろう。

そうではなくて、それが自分の意志でも、決意でもなくて、単なるシュミレーションの幻だと思い出して、乗り越えることだ。

自分の感情、心を、シュミレーションのことだと誤解している悲劇に気づくことだ。

そこから、決意の世界がはじまる。

では、何を根拠に決意するのか。それこそ、ライフの声を聴くことだ。

恨みをやめる、怒りを捨てる、悲しいから抜け出す、傷ついた心をもとに戻す。

それは特定のシュミレーションを捨てることだ。

本当の自分の心はどこにあって、何を言ってくるのか。

自分の精神の故郷から流れ出てくるもの。それが大切である。

スピリチャルのセンスが役立つのは、このあたりだろう。

この決意として流れでる心のことは、心理学という科学では説明できない。

むしろ、心理学を学べば学ぶほど、自分の心、相手の心を見失っていき、それをシュミレーションだと思い込んでいく。

ここからつくりなおそう。