ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

人間観察の前提問題

人を信じること、人を疑うこと。

その両方が必要だし、それぞれに適用を誤ると問題が出る。

この両者は、相手の心をよむ、相手が自分の心をどう読んでいるか考える、という際に、前提として働いているものだと思う。

同じ言動でも、前提として、信じているのか、疑っているのか、それで解釈が異なる。

シュミレーションで信じる、疑うが決まると思っているとしたら、それは間違いだ。

信じるも、疑うも、主体性をつかった意志、決意、態度の問題である。

人間関係のストレスとは、お互いに協調して願いを叶えようとしているときに、疑いが強まって、それにともなったシュミレーションが破壊的になり、しかも、それを人生物語だと誤解する。

つまり、相手が「人生を損なおうとする加害者」になり、敵意、嫌悪感がうまれ、さらに破壊的なシュミレーションが進行していく。

もちろん、このシュミレーションにバイアスがかかっていて、不当であるとか、ゆがんでいると指摘することもできるが、本人にとっては事実そのものなので、簡単には修正できない。

もちろん、お互いの観ている世界が違うことから、再解釈を試みることは可能だが、その前提として、こちら側が関係改善をしようとする意欲がないと無理だろう。

こうしてみると、どうしたら、疑いをこえて、信じることに進めるかというテーマになる。

人間が危機を察知して乗り越えるためにも、健全な疑いは必要である。安易に人を信じることの被害やリスクがあることは当たり前である。

しかし、それが過剰になって信じることが難しくなると、疑いによるシュミレーションに飲み込まれてしまう。

適切な疑い、適切な信頼・・これはどこから生まれてくるのだろうか。

これは関わりの長さ、深さからくるとしか言いようがないと思う。

そもそも、シュミレーションがゆがむのは、短い期間、限られた言動、伝聞なので構成するからだ。

しかし、ゆがんだシュミレーションのまま、本心をかくして長年過ごしても、信頼など生まれるはずがなく、疑いを確認するだけだろう。

疑いのまま、なぜ、協調関係を続けるのか。

協調関係を続けるのなら、信じることが大切ではないのか。

疑うには、だまされないため、自分を守るためであった。

協調関係を必要とする集団において、なにを守るために、なぜ、疑いに基づくシュミレーションを続けるのか。

「あなたは、自分の家族をつくったはずなのに、なんのために相手を疑うのですか」

「あなたは、この職場で働きたいと思っているのに、なんのために、相手を疑うのですか」

きっと、答えは、シュミレーションを説明するだけで、その前提となる疑いをなぜ持つのかは答えられないだろう。

信じるとは、接近のための前提であり、疑いは、回避のための前提だろう。

接近をしていながら、「回避」につか疑いをなぜ前提としているのか。

信じるとは「接近への意志」、疑うとは「回避への意志」と考えたほうがいい。

このあたりの説明に、よく「自己肯定感」が低いからという人もいるが、どうだろうか。

私は、シュミレーションを自分の心だと誤解していると解釈したい。

前提となる、接近への意志、回避への意志は、保留して、シュミレーションによってよかったら接近する、悪かったら回避するという。

そうすると、あるときは、信じているから接近し、あるときは、疑って回避するという「ゆらぎ」のなかに放り込まれる。予測の限界、シュミレーションの限界のゆえだ。

そのようなものに託して、信じる、信じないと決めているのが現代人だ。

回避したい相手と協調して暮らすという悲劇。

そして、人間関係の問題の解決とは、この回避したい相手とどのように協調して動いていくか、というのだから、困難課題であるようにみえる。

しかし、問題は本当はそこではない。自分の信頼という意志の問題である。

それを強めていったときに、別のシュミレーションが姿を見せる。

ストレスは、意思決定を放棄して、前提のないシュミレーションに身をあずけたから発生したのだ。

前提となる相手への信頼 ⇒ 自分の欲求に気づく ⇒ 相手の前提となるこちらへの信頼を信じる ⇒ 言動から相手の心を予測 ⇒ 自他調和の行為

このモデルの流れがうまくいかないのが「ストレス」だということ。

確かに、この前提となる「信頼」は、ほかの世界内の事物、出来事にもいえることだ。信頼があってはじめて予測が立っていく。

疑いだすと何も予測できなくなる。

人間は不完全な知恵と情報しかもたない。そこでは信じることが生存を支えている。

また、信じるとは「賭け」である。

予測とは、「賭け」の勇気に支えられていて、賭けのない単なるシュミレーションに力がないのは当然である。

私たちは、不可知のものがありながら、それはしかたないこととして、知っていることのなかで、賭ける。つまり、信じている。

なぜ、信じれないのですかというと、シュミレーションの話になるが、なぜ、賭けないのですかというと、きっとだめだからというだろう。つまり、怖くてかけられないというのだ。

では、なぜ、賭けるのが怖いのだろうか。何を失うことを恐れているのだろうか。

やはり、悪い予測、破壊的シュミレーションが邪魔をする。

使いこなすべき、シュミレーションが主人を裏切って、決断という賭けを邪魔してくる。

本来、どのようにすればうまくいくかという力を、信じてよいかというテーマに使う愚かさ。

そして、主体性、意志の力、決断の力がそがれていく。

どうしたいのか。があってはじめて、どうすればうまくいくのか。が使える。