ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

主体的意思決定と人間関係

このところ、現代社会の人間関係にまつわるストレスについて考察してきている。

自分だけで行動しているときには、もちろん、人間関係の問題は出現しない。

自分の欲求・動機をかなえるための「行為」があって、目標を達成することで満足を得る。

この欲求が叶えられない場合に、欲求不満(フラストレーション)が生じたとき、あるいは、この欲求に矛盾があって行為に葛藤(コンフリクト)を生じる場合が、「ストレス」になると考えてよいだろう。

欲求不満の解決には、欲求そのものを無理なものだと諦めるか、方法を模索して追求を続けるか、代替えのものにシフトして求めていくことで満足するか、あるいは、この失敗により傷ついてしまう自分を保つために「自我防衛機制」とでもいう、心と行動の操作をするか。

いずれにしても、日々の欲求に基づく、選択は続いていくので、大きくみると、「満足」と「不満」、楽と苦、快と不快というバランスのなかで、生活が送られていくことになる。

ところが、人間関係の問題では、自分と相手がいるがゆえに、もっと複雑な仕組みで「ストレス」が出現する。

社会的行為という言葉があるが、それは、他者の存在を前提にして、自分が欲求をかなえようとするときに、他者がそれを手伝ってくれる、あるいは、邪魔しないということで、お互いがそれぞれ自分の欲求を叶えていく「相互的な関係性」に基づく行為である。

実際の社会生活では、先にのべた「個人としての欲求充足」の場面は少なく、ほとんどの行為が「社会的行為」である。

たとえば、車を運転して目的地に行くという行為であっても、それは反対車線の人が中央線を越えてこないとか、信号を守るとか、交通法規を守るということを予想して(期待して)、車を運転しているのだ。

ましてや、家庭生活、職場生活での行為は、相手の気持ちを予想して、お互いの願いが、叶うような行為をしているのだ。

もちろん、ここには、規範、ルールによって、相互利益を生み出そうとする仕組みもあるので、社会的行為は、ルールを前提にして、相手がルールを順守するという予想で行為されると言ってもよい。

ここで問題になるのは、「心の理論」といわれる、人間が有している「相手の心を予想するシュミレーション力」である。

相手の言動、表情、態度、その積み重ねによって、相手の思考パターン、行動パターン、キャラクターをとらえて、自分の働きかけによって、どのように反応するか、あるいは、自分に対してどのように働き掛けてくるか、それをつかむ。

集団の場合には、多数人について、刻刻と、このシュミレーションを繰り返して、自分の行為を決定している。

人間関係のストレスとは、このシュミレーションがうまくいかず、自分でよかれと思った行為が相手に受け入れられず、相手がよかれと思った行為が自分にとっては苦痛であるという、シュミレーションミスによる苦しみである。

しかし、考えてみると、「心の理論」に基づく予想は、あくまでこちらが相手をどう思うかというとらえ方の一つにすぎず、それが相手が自覚している心境と同じでないことは当たり前のことだ。

このように相手の心の予想がずれてくると、言語・非言語を介したコミュニケーションがうまくいかず、決めつけ、誤解によって、さらに、関係破壊的シュミレーションが進んでいく。

本来、人間には集団形成にかかわる認知的バイアスがあり、自分と仲間がひとつの集団だと認識して、外部の人たちと線をひくと、集団内部の人間は似ていて、外部の人間は違っているというふうに考える。

さらに、内部の人間が好きで、外部の人間は嫌いだとゆがんでいき、ここにストレオタイプな外部の人間への決めつけが生じ、偏見、差別に進んでいってしまう。

逆にいうと、集団内部では、似ている、好きであるというバイアスのおかげで、それを前提としてシュミレーションが行われるので、社会的行為としてはうまく機能する。

現代社会では、人間の集団性がゆるくなり、様々な集団に重なって所属している現状だが、かつてのようには、集団内部の同質化は働いていないように思える。その意味では、集団外部への偏見もまた減っていて、個人として集団から自由になった姿のようにもみえる。

とはいえ、すでに成立している集団には、それなりの同質化、同調化、内部選好の働きがあり、そこに新しく移った者は、その団体の同調化圧力に耐えられず、自分の気持ちを守って反発していると、その集団内で、自分一人が心理的に所属できていないことになる。

内部と外部の区分線が、自分一人のまわりにひかれたとき、集団内なのに、それらの人は外部の人間になり、自分とは違っていて、嫌いだと、偏見が始まる。そして、差別をしているのだが、多勢に無勢、自分のほうが差別されていると感じてしまう。

この問題が生じる理由は、シュミレーションの不完全さのように見えるが、実はそうとは言えない。

なぜなら、シュミレーションはもともと不完全なものであって、うまく働いているときには、その前提となる態度、姿勢が「信頼」「貢献」「希望」という意志に支えられているからだ。それは、集団内選好であったとしても。

実際は、もう少し複雑で、集団内で実際にはそれぞれの考えが異なっているのに、集団内の同質化というバイアスによって、「自分と同じだろう」と見えてしまうのだ。

しかし、それでシュミレーションして関わると、お互いに、違った反応に出会うことになり、ショックを受けてしまう。むしろ、異なった考えだと割り切れればいいのだろうが、そうは見えないことが苦しみになっている。

このような集団的なバイアスによらず、自ら主体的に次のような態度を育てることだ。

「関心をもとう」「ありのままに観察しよう」「深く理解をしていこう」「自分の決断に自信をもとう」「自主性をもってかかわっていこう」「関わりに意味を見出そう」「相手を仲間として信頼しよう」「相手のために役立ち貢献しよう」「希望をもって進んでいこう」

これらは、シュミレーションによって得られる力ではなくて、シュミレーションに先立って、シュミレーションを使いこなすために、各自が持っていないといけない生き方の態度であり、姿勢である。

シュミレーションが、「どうすればよいか」という具体的行動を生み出す知恵だとすれば、これらの主体性の項目は、「どうあればよいか」という存在にかかわる力である。

エリクソンなどの発達心理学の知見では、自分自身の生物的な変化、心理的な変化、集団内での他者との関わり、つまり社会性のなかで、この自己存在の力(徳)は育っていくのだとされる。

乳児期の「基本的信頼感」が人生を照らすベースになり、青年期のアイデンティティによって社会の一員として自分を確立していくのだが、このような力は、知的シュミレーションに先立って獲得される。

これらの力が不足している場合には、発達課題を乗り越えていないという表現もなされるが、自分で育てていくという営みでもある。

この力を成育歴のなかで身に着けられなかったと悩む人も多いが、諦めるわけにはいかない。

そこに介入しないで、シュミレーションを繰り返しても、どこにも進めない。カウンセリングで自分の心を開示しているといいながら、たいていは、このゆがんだシュミレーションを語っているのだ。(カウンセリングの効果は期待できない)

この新しく、主体性のある態度・姿勢をつくっていくには、勇気が必要である。

信じるとは、愛するとは、自分から発した、ひとつの「賭け」である。

相手がどのような反応に出ても、それによって関わり方の方法には工夫をしていったとしても、根本の態度は自分で決めたのだから変えない。賭け続けていくという決意である。

それがないと、不完全なシュミレーションは、とたんに、疑い、おそれ、決めつけ、偏見、差別を生み出していく。人間は、原始時代から生き抜いていく過程で、様々な考え方、行為についての偏り(バイアス)をもっており、それに翻弄されていくことになる。

集団から自由になった現代人が、どのようにして、相手を信頼し、貢献しようとして、希望をもってかかわっていく力を身につければよいのか。それが現代社会の課題だと思っている。

そのためには、自分の歪みや偏りを知り、相手の歪みや偏りを知り、集団の圧力による変容のことも知り、さらには、予測、心の理論、シュミレーションの不完全さを知り、このなかで、他者とかかわっていくには、自分の勇気ある決意しかないと腹をくくって、賭けを続けていくしかない。

人間関係のストレスは、主体的に生きていないところから発生している。

では、なぜ、この記事のように生きることができないのか。

それは、いまだ訓練が足りないのだと私は答えたい。

以前の時代にあっては、このような主体性を伸ばしてきたわけではない。

集団所属の基本的信頼感やアイデンティティによって、シュミレーションが支えられていた。

それぞれが、自分の家、自分の会社のために努力しようとする前提があって、そのなかで、相手の言動を予想して、調和的な行為が可能であった。

現代では、各自が、それぞれに「主体性」を確立して、他者とかかわっていく必要がある。

その訓練ができていないのに、かつてのように、シュミレーションを使うから、疑い、おそれ、決めつけの関係性に堕してしまう。

では、どうしたら、主体性を伸ばしていけるのか。

どうするかではなくて、「どうあるか」だとすでに書いた。

行為の主体である自分が実は様々な要因でゆらいでいることを知ることだ。

脳を含む身体全体のコンディションによって、気分や感情もかわり、それによって認知、記憶、決断等々もかわっていく。

主体性のある自分を保つには、身体や感情の在り方にも気をつける必要がある。

日常の、呼吸、筋肉、感覚、行為、言葉、食事、睡眠、運動、資源活用という主体性の項目について、工夫を重ねて運用していくことだ。

そのうえで、心の姿勢、態度として先に述べた主体性の項目を育てていくことだ。

その意味で、「心理学」が仮説的に主張している、「発達によって特定の人格ができている」という考え方に固執しない。もし、そうなら、どうやって、その人格を変えればよいのか。

ストレスケア、メンタルヘルス、セラピーなどは、直接的に、人間関係の問題を解決するわけではないが、その前提となる態度・姿勢を構築して保つ意味では大切なことだ。

ライフ創造とは、生命、生活、人生の創造であるが、それらは、「自分」という点ではなくて、それを含む全体である。

この全体のなかに叡智があり、調和があり、力がある。主体性の身体的・精神的項目は、どうあるかという生き方の姿勢であるが、それを保つことで、全体から知恵と力を得ているのだと考えよう。

主体性の項目は、点である自分と、自分を含んだ全体のバランスのなかで、育っていく。

私たちは、導かれ、助けられ、育てられている存在でもある。

それを忘れて、「点」である自分を固定したものと考えて、他者や全体にかかわることをシュミレーションするから破綻してしまう。

つまり、自己の限界や制限についての理解が不可欠である。

こうしてみると、自分とは何かのずれがこの問題の本質であるように感じてくる。

自分とは「主体性」、それによる態度・姿勢の決意であると考えるのか、自分という人格・「点」であると考えるのか。

それによって、シュミレーションが見せてくれるライフの姿はずいぶん違ったものになるだろう。

最後に、補足であるが、他者を前提としてない個人の欲求充足については、動機・欲求と、目標をつなぐように「行為」が出現すると書いたが、正確な表現ではない。

それは、自分の行為の結果がどうなるかという予測、シュミレーションによって、それを信じて、行動に移しているのだ。

つまり、これもまた、一つの賭けであり、それでうまくいくと満足、失敗すると不満が湧いてくるということになる。

この場合には、人間は、結果を予想すること(結果予期)に加えて、自分がそれを行えること(自己効力感)がそろったときに、行動を起こすとされている。

つまり、自分ができるという前提、信じること、やるぞという賭け、その先にシュミレーションがあるということだ。もちろん、この場合のシュミレーションは、物理的・化学的因果関係というものになるが。

自己効力感を育てるには、成功体験、モデルの観察、言葉の力、感情・感覚の高揚となっているが、たしかに他者や自分をチャレンジに向かわせるときには、このような働きかけが役だっているようだ。

この図式と、さきにのべた人間関係の記事には「同型」のものがある。

それは、前提となる自分の姿勢・態度と、「予測」の組み合わせであるということだ。

予測が不完全であることは、この不確実で、複雑な世界にあっては、物理的・化学的因果関係でも、「心の理論」による因果関係でも、同様であるが、それを試行錯誤によって、効果を出していこうとするには、前提となる態度が重要であるということが言えるだろう。

関心、観察、理解、自信、自主、意味、信頼、貢献、希望の力

呼吸、筋肉、感覚、行動、言葉、食事、睡眠、運動、資源活用の力

点である個と全体のバランスをとっていく力を育てていくこと。

ライフにおける、この点と全体のバランスのことを「自己」だと考えていきたい。

これまでは、どうしたらよいかとばかりに、問題点、原因を探して、対応策を講じていたが、そのシュミレーション力は、複雑で不確実な現実のまえには、通用しないことが多い。

むしろ、どのような自分になればよいかに集中して、全体と個のバランスのなかで、主体性を育てていけば、よい方向に導かれていくと信じることだ。

大きな自然の流れ、存在の在り方は、私たちには、不可知であるが、それゆえに、自分をつくることでふさわしいところに連れていかれる。ふさわしい結果が得られる。

点としての個人が予想する因果関係の知恵から、全体の中で点としての自分のありように働いてくる因果見解の知恵へとシフトしていくことも求められている。