ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

無償の愛と主体性(信頼・貢献)

無償の愛と「主体性のある信頼・貢献」の違い

現代社会では大人も「子ども化」しているらしい。

無償の愛を希求してやまない存在。

職場では上司にも、部下にも、家庭っでは、パートナーにも、親にも、子にも、それぞれが相手に「やさしさ」を求めている時代。

それが得られないと被害者としての自己憐憫、そして相手への失望と不満や怒りを持つことになる。

どうして、ここまで人間は「やさしさ」とりわけ、無償の愛を求めるのだろうか。

無償の愛とは奇妙な表現である。

そこにはギブアンドテイク、取引、相互的な愛との「比較」が見えている。

自分が相手によくするから相手も自分によくしてくれるという相互関係では満足できない心。

自分が努力しようがしまいが、ありのままで、そのまま認めてほしい、愛してほしい。

子どもが親に求める愛のように見えるが、親が子どもに与えている愛とも異なる。

親は子どもの未来を信じて夢をもって必要なことを教え、ときには厳しく、ときにはやさしく、子どもの世話をするが、ありのままに認めてただ愛する存在ではない。

とくに思春期には子どもが自分の人格を認めてほしいと願うが、親は自分たちの意思で良かれと思って子育てをしてきたので混乱する。

子どもが親のコントロールから自立できるかどうか、親が子どもの人格を認めることができるかどうか。そのような危機がそこにはある。

このような親子関係に対して、現代人が潜在的にもっている「やさしさ」「無償の愛」への欲求はどこか違うもののように思える。

生き辛さを訴える若者のなかには、この「やさしさ」や「無償の愛」を求めても得られず、相手との出会いと別れを繰り返しながら「人間不信」に陥ってしまう者がいる。

その主張としては、自分は幼児期から親の愛情を十分には受けてきていないので、他者を信じることができない、他者を愛することができないのだという。

親の愛情を感じ取ることができなかったということと、親が子どもを愛さなかったということは、異なったテーマである。

もし人間が一人で生きるべく運命づけられているのに、それを長期間にわたって養育した者がいるとしたら、それは格別ありがたいことで感謝の対象となるだろう。

しかし周囲の仲間の家庭や親のことを知るにつけ、情報社会で親とはどのようなものかを知るにつけ、自分が受けてきた子育ては不完全なもので、そこには本当の愛情がなかったと結論づけてしまう者がいる。

さらには、自分が親になって子育てをする際には、自分が十分に子どもを愛することができないといって自己否定する者がいる。

親の姿や家族の形は、その時代の産業構造や社会制度の要請をうけて、社会全体で文化として共有されているものによって作り出される。

ある意味、イメージや情報によって「家族」や「親子関係」が形成されてしまうのだとしたら、そのイメージや情報の中にこそ問題があると考えたほうがよい。

主体性の世界では他者に対して、自ら「信頼」し、貢献しようとする力を育てていくことになるが、それは自分の意思の働きであるがゆえに、相手の言動によって変わるものではない。

このような主体性のもつ一貫性やゆらがない姿を相手からみれば「無償」であるかに見えるかもしれない。

かりに、自分の愛を「無償」のもの、相手からの見返りを求めないと意識したとしても、そこには「本来は見返りを求めるべきものだが、自分はそれを断念する」というような無理がある。

それゆえに、無償の愛は相手の言動いかんによって、裏切られたと感じると、我慢の限界で、「これだけしてきたのに」と手放してきた見返りを回収しようとする。

しかし、自分の人生を創造するために、主体性をもって他者を信頼し貢献しようとしてきた取り組みは、そのような破綻がない。

反省すべきは、その意志を弱めて、主体性を低下させてしまった自分である。

では、主体的「信頼」「貢献」にむけてなぜ人間は努力しようとするのか。

基本にもどってみよう。私たちにとって、目の前の「出来事」が人生であって、それを受け入れること、そして自己決定・選択によって主体性をもって次の行動を選択することがライフ創造であった。

人間関係に関する「出来事」を前にして、相手がどのような気持ちで行動したのか私たちには本当のことは分からないし、こちらの行動によって、どのように反応するかも分からない。

ただ、自分がどう相手を見るか、次の相手の行動をどう予測するかも自分で決めるしかない。

そのうえで、相手にむかって行動を起こすのだから、自分から「信じて」「役立とう」とするしかない。

じゃんけんでいうと、相手を読み切って自分の行動を決めようと悩むのは「後出しじゃんけん」をしようとお互いに画策しているようなものだ。

人間関係とは、ひとつの賭けだから、自分が相手に対してどうしたいのかを自分できめて、じゃんけんを出すしかない。

そこに「勇気」が必要になるし、その結果、相手の反応が思わしくなくても、自分の意思を貫いていく継続性、つまり相手を信じつづける努力が必要になる。

これはある意味自分本位の愛である。もちろん、ここには相手の反応によって方法や態度を変えるなど工夫は必要だが、信頼と貢献の意思は変えないことだ。

この記事のテーマである、無償の愛と主体的信頼・貢献の違いについて書いてみた。

残る問題は、「無償の愛」をもとめるのが、時代のイメージと情報によるものだとしたときに、なぜ、それが流布したのかというテーマだ。