不信感と個人的・集団的自我作用
生きた集団の特徴を既にまとめて記事にしてみたが、そうでない集団がなぜ生まれるのか。
�@ 集団を特定の個人が私物化する。
�A 集団にふさわしくないもの、やっていけないものを変えていこうとしてうまくいかないと排除する。
�B 特定の目的のために集団を運営する。(生きる場ではなくなる)
�C 言語的・表面的交流にとどまること。
�D 利益誘導、法的規制、権力による抑圧などによって役割を果たさせる。不信感がベース。
�E 専門家の理論に従って運営して、集団や個人の実体や思いを無視する。
・・・きりがないが生きた集団の項目の反対を列挙すればよいのだろうか。
問題は、このようなイメージが導き出す「本質」である。
集団が実体化して個人を部分化・道具化する極端と、個人が実体化して集団を構成することが欺瞞的・形式的なものにとどまるという極端に陥らないことだと思う。
では、なぜそのような極端に陥ってしまうのか。
自我の凝集作用によって、個人的自我、集団的自我が出現して、それが猛威を振るっているように見える。
自我は危機に際して防衛的になったときに現れる。つまり、危険、不安、不信が生み出す。
個人が信用できずに、集団的自我が出現して個人を縛るのか、集団が信用できずに、個人的自我が出現して集団に飲み込まれないように抵抗するのか。
集団を信じ、個人を信じるという世界がどのようにして現出するか。これは言葉をかえれば人間を信じるということになる。
あるいは、なぜ、信じることができないのか。
よく、このような問題提起をした専門家の本や論考を読んでいくと、最後には「愛」がないからだと結論づける人が多い。
では私たち人間にそのような愛をどのようにして育てていくのかという新しい問いが生まれてしまう。
不信感をベースにした契約社会にあって、取引は匿名性をもった市場経済で行う時代にあって、個人や集団に「信頼感」をどのように埋め込むのか。
ましてや、愛をどのように・・
こうなってしまうとライフストレス研究としては行き止まりになってしまう。
相互信頼の世界を生み出す実践、相互貢献の世界を生み出す実践。その精神を埋め込んだ集団の創造。
もっと、この分野の秘密を明らかにしていきたい。