ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

家族内の人間関係の苦悩

認知症の親とかかわっていくご苦労や、聞き分けのない乳幼児を育てていく親の苦労などご本人でないと分からないところがあるだろう。

いくら言っても一緒だからとか、受けとめていくしかないとか、相手に合わせるしかないとかアドバイスを受けても、どうしても苦しくなる心理がある。

人間は集団内では相互関係を前提にしていきている。

相手が自分の願いをかなえてくれる、あるいは、邪魔しないためには、どうしたらよいかと考えて、自分の行動選択をしている。

相手が快く自分の望むことを叶えてくれるのは、相手が同じようなことをしたときに自分もまた相手の願いを叶えてきているという前提がある。

そして、これらの経験の積み重ねはルール、規範として働くようになり、それをお互いに守ることで協調して暮らすことができるようになる。

職場であれ、学校であれ、そして家庭であれ、このような集団性にまつわる心理は働くものだ。

その相互関係や規範の尊重がない者は、悪意がないというものの、周囲から困った人間だと認識されることになる。

現代社会では、この集団の規範が不明確で、各自が「これこそが集団で大切にされていることだ」と考えていることが異なるのでトラブルになっている。

だから、みんなのために、みんなと仲良くしようとしているのに受け入れられないということになる。

いわゆる本当の意味での自己中心的な人だけでなくて、周囲と異なった集団のルールを持っている者が不適応を起こすことになる。

そして、冒頭の認知症の方や、乳幼児が、このような相互関係や集団形成の規範の外にあるのだが、それが心理的に負担になっていく。

かりに、これらの者が家族ではない、外部の人間であれば「ありのままに認めて」ということも可能かもしれない。

保育や介護福祉が仕事として扱われることで、この問題を乗り越えようとしているのかもしれないが、もしかすると、その集団のなかで同じようなご苦労があるのかもしれない。

「その集団とは異なった行動パターンを持つ者」が集団内で仲間として暮らしていくという課題がそこにある。

ただ、これは悲しむべきことではなくて、今の時代の私たちが目指していく課題だと考えている。

本能的、感情的な集団形成の力には、上記のような弱点があることを熟知した者が、新しく集団を形成していく力を身につけていくことが求められている。

もちろん、乳幼児を育てる苦労や、認知症の親を支える苦労について、そこに愛があるから乗り越えらえるという意見があることも承知しているし、多くの事例もあるだろう。

しかし、この「愛」は体験のなかで努力して身につけていくものであって、家族だからといって自然に湧いてくるものでもないと考えている。

私がこの記事を書いたのは、自分の苦悩の正体をまずは知ることが大事だと考えるからだ。

自分が親に対して、子に対して、受けとめることができずに、辛くなって、ときに感情的になるのは、なぜなのか。

それが上記の矛盾によって起きていると知ることから次の対応が始まるのだと思う。

従来、「愛」と言われてきたのは、私なりには「主体性」の別名だととらえている。

集団の相互関係・規範性を超えて、自分が相手をどのように思いかかわるか、そこに精神の自由があるということ。

そして、自分が相手を信頼し、相手に貢献していこうとする意志を強めていくこと。

この意志は、感情ではない、社会に流布している言説・共同幻想的な信念でもない、自分のライフを自分なりに創造していこうとする勇気であり決意のことだ。

その意味では、集団性にまつわる感情から自由になり、社会で流布している言説から自由になること、つまり内的拘束、外的拘束から自由になってはじめて出現してくる意志だ。

それらの拘束は、従来の動機でありエネルギーであったので、それを離れると「真っ白」で何をしてもしなくてもいいという感覚になる。

そのうえで、「自分の人生として、どのようにふるまうことがよいのか」と出来事を前にして、刻々の体験として選択を続けていくことだ。

人間関係のトラブルのほとんどは、感情の問題と、社会で形成された共同の信念の問題によって起きているようだ。

認知症の方を抱えて家族のトラブルは、上記の様々な問題を複合的に含んでいることからくると思っている。