ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

人間の欲求の集団的視点

このところ書いてきたことだが、やはり強調しておきたい。

個人の身体があって並行して、個人の心があるという前提がメンタルヘルスについて考察する場合には集団的視点を阻害するという意味で邪魔になっている。

人間の内発的な動機として、感性動機、新奇動機、認知動機があるとされている。もちろん、個人心理としても説明可能であるが、集団生活を前提としてとらえることも可能である。

すると、「刺激」を求めること、「新しくて珍しい刺激に反応すること」「パズルを解くように謎を解きたい」ということは集団としての生存にもそのままつながることに気づく。

とくに、「新しくて珍しい刺激」の逆である、ありふれた刺激とは集団内で共有されているものだと考えてもよいし、パズル、謎の逆である「分かり切ったこと」も集団内で共有されているものである。

だから人間は集団にとって異質なものに気づき、それを分析して理解するようにできているということにもなる。

さらに外発的動機として「親和動機」「承認動機」「達成動機」があるが、これこそ社会的な動機であって、集団の中で、仲間とつながり、仲間から認められ、集団のために困難なことを成し遂げたいというものだ。

こうして考えると、個人を内部から突き動かしている「欲求・動機」は、一方で集団から引き出されている力でもある。

生物的なホメオスタシスに基づく欲求にしても、外界の自然の変化と内界が連動しているので、外の自然から引き出されたと考えてもよい。

感情に基づく行動にしても、相手の感情から引き出されたともいえるので、自分から出たものだと一方だけで考える性質のものでもない。

何を言いたいかというと、行動化できない、やる気が出ないというときに、逆にやってはいけないことを行動化してしまうという課題を前にして、自分の内的心理を考察する傾向があるが、むしろ、他者や集団とのかかわり方、つながり方のほうに課題があるという視点があるということだ。

このようなことを書くと、自分のやる気が出ないこと、自分の言動に問題があることを、集団のせいにしたり、他者のせいにしても何にもならないではないかと反論があるだろう。

そして、変えられないものを見るのではなくて、自分を変えていくしかない、自分の中にやる気をつくるしかないのだと強調する人がいるだろう。

手段が見つからないからといって、ものの見方までゆがめないといけないのだろうか。

そして、ここでいう「集団」「他者」とは自分にとってのとらえ方であって、自分で変えられるのに。

自分の心の中に問題を発見して解決すれば、やる気があふれ出す、よい行動に変わるという立場と、自分が集団や他者をどのようにとらえて、つながっているかで、自分のやる気の出方が違う、行動が変わるという立場を比べているのだ。