令和の時代に進む
今年は、これまでの活動を一旦停止して、これからの20年を考えることにしている。
一見すると、ひきこもっているようにも見える。
そのなかで見えてきたことを整理しておく。
�@ ストレス問題は、心身の健康問題を超えていく。
�A 医学的、臨床心理学的、ストレスマネジメント的アプローチの限界が見えてくる。
人生のこと、生きる意味、人間としての進化、自然と社会との調和、さまざまなテーマに広がっていく。その一方で、取り組むことは、個人や集団の具体的、個別的なことに集約されていく。
�B さらには、専門家の知識技術の活用、切り売りというやり方も行き詰まる。
�C むしろ、それらが「主体性」を阻害しているという副作用のほうが問題になってくる。健康になるためなら、専門家の意見に従うのだ、という従来の切り口が害になってくる。
�D セルフコントロールや、専門家の支援が、あたりまえの社会の中での、職場や家族での「つながり」を切断しているという副作用もまた無視できなくなる。
�E これからのライフストレスへの支援は、「主体性」を増大させるようなアプローチでなくてはならない。知識技術の専門家は、情報化されて、公共化されて、その存在意義をなくしていく。ネットの発展やAIに置き換えられていくだろう。
自分の仕事に枠をもうけて、臨床心理、カウンセリング、コーチング、動機付け、ストレスケア等々、そこに閉じこもって、その立ち場に相談者を合わせて介入することは、次第に許されなくなってくるだろう。
個人がどのような信念や行動パターンをもって生きるかのほうが大事で、健康になるために、問題解決のために、それを専門家にゆだねてしまうことは、本末転倒になるだろう。
健康も、トラブル解決も大事だが、そこで、どう生きたいのか、それを見失わないことだ。
目にはみえない心の問題だからこそ、それを簡単に他者のつくったものにゆだねてよいはずがない。
�F 情報を秘匿して、価値を高めて、売るというスタイルは、旧タイプのもので、その隆盛があるとしても、それは最後の輝きである。
�G 時代は、主体性とつながりの回復にむけての支援を求めている。哲学対話とか、ファシリテーションとか、その動きの先に答えが出てくるだろう。
�H 仕事はさらに個別性を高めていって、誰かの、専門家の想定した、普遍的解決法などなくて、逆に、それがどこで使えるかを探さないといけなくなる。
�I だから、その種の商売では、前提に前提をかさねて、専門家が用意した「問い」のまえに立たせようとする。そして、はじめて、その手法が役にたつ。
�J それは供給側が無理やり、仕事をつくるからだ。ライフストレスに関する仕事は、明らかに、それを必要としている個人の側に生み出される。そして、それを解決してくれるところを探し回っていくことになる。
�K この不毛なミスマッチを防ぐために、こちらサービスの供給者は、何ができるかを明示する必要があるので、私も出版やネット情報として表現してきた。
しかし、そうやって、星の数ほど、「私は●●ができます」という人をどうやって消費者は使えばよいのか。きっと、もともとの自分の求めているものはゆがめられて、しまうだろう。
�L これからは、仕事は困っているその人が用意する。そして、その解決法をこちらでオーダーメイドで提案して、合意すれば仕事がはじまるようになる。
�M それこそが、主体性であるし、消費者と提供者のつながりだと思う。
�N できないこと、できることは確かにあるが、それはありのままに発注者の仕事をうかがってからのこと。そして、それができる人を探すこともまた、業務になる時代ではないか。
�O 仕事を生み出す個人、それを解決するために協力する供給者。こちらのほうが健全であると考えられる時代になるだろう。
�P では、経済的な競争はどのように働くのか。もちろん、厳しい競争があるが、それは誰にでも使えるサービスについて、値段の競争をするようなものではなくなる。一般的な市場経済的な展開ではなくなる。
実績や信用の蓄積によって、仕事の発注者である個人が選んでくださるようになる。そして、その解決のために手を結ぶものもまた、お互いに信用のおけるものになっていくだろう。
つまり、競争ではなくて、信用と協調の経済が生まれていくのではないか。
そして、そこで、淘汰されていくものは、信用のおけないもの、時代に合わなくなったもの、経済合理性だけで動くものだろう。
このストレス社会という圧力は、様々な分野に進化圧として働いているが、そこで倒れていくものもいるが、その一方で、新しいものが生まれているところでもある。
個別の個人や、組織からいただく仕事にたいして、自らを変化させて進化させていくものが、次の時代をつくるのだと考えている。
今の時代は、「自我」の時代である。あくまで自分があって、親がいて、兄弟がいて、家族があって、職場があって、社会があって、国家がある。
仮に逆の時代、国家があって、社会があって、職場があって、家庭があって、親がいて、自分がいるという世界からみると、ピラミッドのような姿が逆立ちしているのが現代だろう。
それゆえに、個人は、この重みを圧力、ストレスとして受け止めている。
以前の時代では、これらにつながり、この支えによって自分があったのだが、一方、個の自立は弱かったかもしれない。つながりに守られていた。
個人の自立を目指そうとしても、自我への圧力によって、それが難しい。防衛的になり、感情交流がゆがみ、表面的に役割交流を進めていくのだが、そのずれがストレス被害を生み出す。
復古するのではない。自我の時代を「主体性の時代」「つながり」の時代にかえていく。
そのための仕事をしていきたい。