仕事観
仕事に対して、自分なりの意味付け、やりがい、使命感を付与することに、現代人は夢中である。
だれもが、自分のやることが「特別なこと」だと言いたいようだし、それゆえに、必要とされ、応援が得られ、伸びていくのだと思いたいようだ。
かつての私もそうであった。ストレス社会の解消という目標のもと、ストレスに苦しむ多くの人の役に立ちたいと思って、この仕事を続けてきた。
そして、たしかに、時代はその方向に変わってきたし、それに応じた仕事が展開されている。
でも、それは自分の仕事が特別であったのに、陳腐化したということもない。
もともと、特別ではなかったのだ。
そのような時代をつくっているという高揚感は誰しも持ちたいものだし、今もそのような試みが繰り広げられている。
私は、そこをくぐって、いままで続けたきた。そして、特別感も、使命感も、高揚感も削り取られて、フラットなところ、何も考えない状態にいたっている。
もちろん、仕事には誠実に向き合いたいと思うが、それはどの仕事でも同じである。
やっと、自分の仕事がありふれた一つの仕事であるという諦念に至った。
このようなことに気づくにも時間と体験が必要であったということか。
だから、他者を仕事や活動にまきこむときに、特別、使命、高揚によって動かすことは、危険であると私は思った。
これこそ、自我の好むところ。どれもつまらないし、どれも大切である。
比較や分別によって生まれる価値のあやうさ。
だから、自分や家族の「糧」のために、自分のできることでお金をいただく、それだけでよい。
そこからしか、はじまらない。
もちろん、そこにどのような心をこめていくか。それは大切なことだが、心をこめやすいものを仕事にしたいということは逆転している発想だ。
私は、いま、たちどまって、これからの仕事を構築しようとしているが、それは特別、使命、高揚とは関係なしに、仕事を生み出すことを仕事として取り組むだけだ。
実務であって、哲学や心理学ではない。
実務として悩まないと、意味がない。
やるべきことを、たんたんと、やりとげていく。
仕事を根のはえたものとして、育てていく。
これまでが、長い長い、研修時代、研鑽時代だと思うほうがよい。仕事として取り組んでこなかったと。
仕事として生み出したものを提供して、それで喜んでもらい、糧を得るという基本を忘れない。
誰に、何を、どのようにして提供していくことを仕事にするのか。
それだけである。自分の評価は、経済的な尺度ではかればよい。
感謝されることも思い出に残ることも無駄ではないだろう。
しかし、仕事で信頼されるということは、こちらのサービスなり、商品によろこんで対価を払ってもらえるかである。
これもまた、忘れてはいけない。
しっかりと、仕事をして、糧を得て、その一部で社会貢献や恩返しができるようにならないといけない。
仕事を仕事として確実な安定したものに育てていくこと。
自分のやりたいこと、したいことを形にするという発想、それをお金にしようという発想はどこか間違っている。「なぜ、あなたのやりたいことを実現するのに、私がお金を払わないといけないのですか」と思われるに違いない。
それがまかりとおっている現代。やりたくない仕事から逃げ出していこうとする傾向。
好きなことをして、お金を稼ぎたい。
どうして、こうなってしまったのか。それは国家観、社会観、職場観、家庭観、それらをなくして、よりどころは自我の身になった時代。
栄養をくみ出す井戸は、自我の中にしかない。
自分のできることで役立って、それを仕事として育てていけばよい。
それをなぜ悩むのか。
それは、お金ではなくて、承認がほしい、賞賛がほしい、感謝がほしい。
多くの人が、やりがいという言葉のかげに、そのような欲求をいだいている。
もちろん、それは原始的、本能的な感情交流をもとめるものだから、否定はしない。
しかし、本来、それはどこでも誰でも得られるものなのに、今の社会では、役割交流の背後で、感情交流が殺されているから、枯渇したものとして、それをもとめて、転職する。
つまり、飢えているから、迷っているのだ。
仕事をしっかりとするなかで、自我をのりこえて、枯渇の原因にきづいて、その場所で、主体性を伸ばして訓練していくことだ。
そうなれば、やりたいこと、才能競争、特別なものの競争は終わるだろう。
だから、私は、仕事をする。そして、その仕事のなかで、感情交流をつくっていく。
それだけだ。