「自分らしく」について
役割交流と感情交流のミスマッチが、職場のストレスになっている。
では、EQとして提唱されているスキルを伸ばして、感情交流を良好にすればよいかと言われると、ことはそう単純ではない。
役割交流には、その背後に組織としての価値観、信念があるが、それは個人の価値観、信念と合わない場合がある。
そこから、感情がゆがんでいく。
感情のゆがみが適切な役割交流をゆがめたり、
役割交流を義務的に徹底させても、その背後の感情の軋轢がストレス被害をうんだり、
信念、IQ、EQ、役割交流、感情交流について、複雑な関係性がある。
さらに、この信念について、「自分らしく生きる」というテーマがさらに混乱を生んでいる。
もはや、日常的に「自分らしく」という言葉が多用されている時代だが、これこそ、自我の時代の象徴的な言葉だ。
個性に価値を置く時代。
ライフストレス研究で、整理しないといけない大きな問題だ。
集団的言説が信念となるのだが、個人が分断されていくなかで、時間と空間をこえて、その人なりの言説を蓄積していき、他者とは共有しにくい「信念」をそれぞれ持つことになる。
そして、それを生かしていきることが目標になる。
願望世界。
体験のなかで、信念を適切に入れ替えていくことで「進化」する、適者として残ることが大切だが、信念を守るような体験を追求していく道が提唱されている。
自分らしくとはどういう意味なのか。
もし、それが主体性の訓練、追求であれば、私は同意する。
主体的に生きようと、自分らしくいきようとの違いは何か。
自分として生きる、自分がいきる、自分でいきる、「らしく」とは・・・
自分らしくない生き方の忌避。
感情交流が役割交流に押しつぶされないということか。
自分とは、意志なのか、感情なのか、主体性なのか、能力なのか、
「個人差」は心理学的な「差異」を調べる概念。
個性とは、絶対性、全体性をもっている価値あるもの。
自己実現とは、可能性の開花、社会との統合、愛、創造活動。
どうも、このあたりの概念の混乱が問題を生み出しているようだ。