実践のチャンス
久しぶりに感情が波うっている。
通常は目の前の現象をありのままに受け止めようとして、物事をエゴで見ないように取り組んでいるが、うまくいかない体験がある。
過去の体験、閉じ込めた感情、自由にふるまえなかった悲しさ、怒り、不安が湧き出してくる。
そして、もう、同じように苦しいことは嫌だと考えて、冷静な言動ができなくなる。
広い意味では、これも、過去の感情に向き合い、解放しているのだが、これでは、自分も、相手も、周囲もうまくいくはずがない。
感情発散に過ぎないのだから。
このような場合にどうすればよいのか。
それは、この感情を抱えたままで、人生を進んでいくのだと決意することだ。
過去、受け入れていない体験があったとしても、そのときの自分にはどうすることもできず、最善のことであったし、その苦しみを与えた相手もまた、その行動をとることしかできず、未熟なものどうしが、繰り広げたものである。
だから、なぜ、相手はあのような言動をとって自分を苦しめたのか、とか、なぜ、自分はそれをはねのけて戦えなかったのか、と現時点から振り返って、怒り、悲しんでも何にもならない。
むしろ、そのときは、そうするしかなかったということ、それに付随した痛みを抱えてしまったことを受け入れるしかない。
その痛み、怒り、悲しみ、不安は、そのまま、自分自身である。
それを愛しいものとして、抱きしめて、進んでいくしかない。
「もう、おなじ苦しみをしたくない」と思うのは無理のないことだが、そうおもったからといって、その苦しみが避けられるものでもない。
かつても、避けられなかったのに、なぜ、今は避けられると思うのか。
一見すると、打開策、避けるための手のようにみえて、冷静さを書いた感情的行為は、結局、同じ苦しみを引き寄せてしまう。
新しい体験をしたいのであれば、新しい自分になるしかない。
この状況下で、自分はどのように成長すればよいのか。
不都合、困難をさけて、結果をよくしようとするのではなくて、自分がこの苦しみのなかで、どのように成長していくのか、それだけを考えることだ。
では、どうしたら、自分が成長できるのか。
新しい体験をすること、新しい関わりをつくること、そのなかで新しい信念を生み出すこと。
つまり、過去の苦しみを取り除こうとする営みは、新しい体験を阻んでいるのだ。
だから、苦しみを小脇に抱えて、結果はどうなっても、すべて受け入れていくと決心しよう。
これまでだって、苦しいことはあっただろうに、なにをそんなに恐れているのか。
過去の苦しみを愛しいものとして大切にしよう。
新しい体験のためには、自分を空っぽにしないといけない。
自分のなかを自由にしないといけない。
捉われてはいけない。
殺されるわけではない。大切なものを失うわけでもない。
覚悟をきめて、すべてを放り出して、真っ白になろう。
そこに、本当の知恵が入り込んでくる。
どこからか、導きがある。