共感性が自我を超える
自らの実践こそがこれからの道。
実践とは、生命、生活、人生の総体であるLIFEを輝かせていくこと。
それこそが「自己」なのだから。
「経済」「経営」の問題にも緊張する必要はない。
それとて、「生活」の法則であり、LIFEの一部分であるのだから。
ただ、「自我」の檻にとらわれて、同じ思考行動パターンの焼き直しの閉塞した日々から抜け出したければ、新しい体験を重ねることだ。
新しい体験は、どこにある。
完結した自分の世界にはない。知っていること、やってきたこと、それだけで積み上げた世界。
だから、未経験、未知、不可知の世界にこそ、自分の新しい体験が待っている。
実践が難しいとか、結果が不安だとか。それはもっと良い方法を知っている者の贅沢な愚痴である。
ここまで来て、私は何も知らないのだから、不可知の世界に飛び込んでいくしかない。
ああでもない、こうでもないと、自分の中でこねくり回すのではなくて、新しい世界へ飛び込んでいく。
新しい別世界とは、どこか、それは他者性の世界、他者のLIFEである。
共感性の力で入っていくもの。
そして、この他者は、目の前の「個人」には限らない。
生命として生きとし生けるもの。歴史のなかに生をうけて埋もれていった人。
そして、この私の世界では不可知であっても、「全」として、どんなに小さなところにも、どんなに大きなところにも、「在る」もの。
そのような自分を超えた存在に心を通わせていくこと。
自分が生命であり、生活であり、人生だとすると、自分は自然の子であり、社会の子であり、価値の子である。
すると、「子」であるところの自分にとっての親は、根源は何であるのか。
その根源に心を通わせることが、これからの新しい実践になる。
自然という親、社会という親、価値の源泉たる精神の親。
この総体、さらなる源泉をかつて「神」と呼んでこうべをたれてきたのが人間ではないのか。
この「神」「親」「源泉」は自分とは別物ではない。
すべては関係性、空(くう)であり、様々な関係性のなかで「自分」を切り取ってみているに過ぎないように、その関係性の対極として「神・親・源泉」があるからだ。
このような両極の存在性をもつ人間は、自分と神の間にあるものであって、そこから切り取った「個」としての自分はフィクションである。
関係性のシフト、変化、きらめきのなかにあって、この切り取った「個」は変幻自在に変化もしていくし、いくら不都合でも、関係性が固定され、固定し続けているために、「個」も固定される。
人間がフィクションなら、その対極の神もフィクションということになるが、人間や個人、自分がリアルであるというのなら、それと同程度に神もリアルである。
自他関係で、自分と他者が出現し、その自他関係を包み込むかたちで、人間と神も出現している。
では、LIFEが成長し、人間が成長し、輝いていくとはどういうことなのか。
それは、この他者へ開かれた自己の延長に、神に開かれた自己が展開していくことだ。
これは、従来の自我による神への信仰とは違う。言葉を同じくしているがゆえの誤解を生じるだろうが。
自己超越、自己統合の話である。
この世界が自分であると自己受容をすすめていったとき、他者の世界が別ものであると気づき、さらには、その根をたどっていったときに、集団性にいたる。
集団性の根には、自然という根源、社会という根源、精神という根源がある。
その根源をたどっていくと「全体」にいたるが、これは人間には不可知に世界であり、神と呼ぶしかない。
神という根源をもって、集団があり、個人があり、それぞれのLIFEがある。
しかし、本当はここに「出来事」があるだけで、それを人間はLIFEだと認識し、生命、生活、人生にわけてとらえ、その根源があることに気づき、その果てに神があると信じる。
この両極の運動は、これもまた、関係性であるのだが、ここに至ってはじめて、人間は自由になる。
つまり、限定的な関係性の世界での両極運動は、限定された自己にしか出会えないということで、不可知であっても全なる関係性によって両極運動をすることで本当の真なる自己に出会えるということである。
つまり、この全なる関係性への扉を閉ざしているのが、「知っていること」に安らぎたいという執着である。
知っていることの先にすすむには、勇気と信頼しかない。共感の力しかない。素直さである。
親や根源から集団が生まれたと書いたが、分かりやすく言うと、親がいるということは兄弟姉妹がいるということである。
自然物、歴史上の偉人、あらゆる生命体、そして、人間をこえた霊的存在、それらの実体性、存在を問うのではなくて、意味論的には、自分の兄弟姉妹であり、助けてもらっている、助けようとしているということを強調したい。
この文字列は、わたしにとっては新しいものである。
さて、これを書き出したこと、読んでいることで、OKを出したいと思う。