自然は私たちを試してくる
最近、SNSの記事を読んできて、気がめいることが多い。
読まなければいいのだろうが、皆がどう思っているのか、世相を知りたいので見てしまう。
不快になるのは、自分の中にも同じ気持ちがあり、それを訓練で変えてきたからだろう。
訓練したものが崩されていっているのか。
崩してこそ、再構成できるとすれば、これはこれでいいのか。
きれいごとを言ってきた人たちが、自分にも感染症の影響で被害が及ぶとなると、ほんとうに地金がでて、あさましいことを言い出す。がっかりするが、自分にもそのような要素がある。
つまり、人間にがっかりしているのだ。
しかし、人間のサポートをする役割としては、理想や空想ではなくて、リアルな血の通った、善悪をこえて、美醜もこえた人間を受け入れるところからスタートしたいとは思う。
だから、このがっかりする気持ちをなんとかして、人間をそのまま、敬愛していくスタンスが必要なのだろう。
立派だから、善だから、美しいから、好きになるのではなくて、人間が人間であることから、逃げてはいけない。
経済や経営の話、自己成長、自己啓発の話、健康や人生の質の話、生きがいの話。それらは、この非常時にあって、本当にどうなのか、試される。
だれだって、調子のよいときには、調子のよいことが言えるものだ。
だから、こんなときに、何が本物かをみきわめればよいのだろう。
自分の訓練してきたこと、積み上げてきたことが、この不穏な社会不安のなかで、通用しないこと、無力にみえることは、痛快かもしれない。
もういちど、壊して、さらに強靭なものに組み立てればよいのだから。
そして、このような淘汰圧のなかで、偽物が消えていくのだろう。
私は、他者の身勝手な言動に腹を立てるのではなくて、粛々と自分を振り返って反省すればよい。
自分もまた、消えていくのかもしれないから。
自然は、このようにして、私たちの生存の力をためしてくる。