ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

統合と活用展開 新しい人間学

かつて、唯物論唯脳論、唯心論などの枠組みに悩んだことがあった。ホームページの人間学コーナーにも詳しいところだ。

このところの学びによって、整理できて来たのは、「説明方法」の限界による「疑似問題」であったということだ。

心とはなにか、心身相関の理由、非物質である心がどうして物質である身体に影響を与えるのか。

さらには、私たちが現実だと思っている世界が認識が生み出したものだとすると、そのもとになる真実の世界とはどのようなものなのか。

これらの問いもまた、人間が有している認識方法、説明方法の限界からくる、疑似問題であったということだ。

だとすると、どうやって、これらの問いを整理して、しかも、日常生活において、活用していくのかについて、新しいパラダイム転換が必要になってくる。

科学的アプローチの限界を知り、それを活用しつつも、疑似問題に拘泥せずに、全体を描写する方法が必要になる。

そして、現代社会の様々な問題は、かつては、有効であった「説明方法」の限界によって、かえって、問題が再生産されていて、それを解決しようとして、さらに問題を複雑にしているということだ。

それは、たとえば、天動説に合わない観察結果が報告されるたびに、理論を修正しつづけて、それが煩瑣になっていったあげくに、地動説に譲らざるを得なかったようなもので、それも説明方法の変遷ということになる。

つまり、現在の人間学にまつわる、さまざまな問題も、説明方法の刷新を求めているのであって、それは真理というものでもなく、当面使われていくに過ぎないことも忘れてはならない。

イメージとしてまとめておくと、

身体をふくむ環境全般、そして、脳を含む身体。これらは連続して関係性をもっており、どのように分解、分類して説明するかは、説明の仕方にすぎない。

しかし、こうやって書いたとたんに、これらは、物質的な連関であって、これとは別に心、精神があるように思ってしまうが、それは使った言葉、概念のせいである。

人間の認識によっては、不可知な部分、意識できる部分があって、その意識できる部分を物質と精神に分けているだけなのに。

だから、環境、身体、脳・・これらがすべて認識によって構成、創造されているとすれば、すべてが精神ということになり、唯心論になってしまう。

しかし、このような混乱は疑似問題であって、説明につかっている言葉や概念の限界によるということを言いたい。

大切なことは、私たちの意識や感情、概念も、すべての関わりのなかで創造、構成されているものであって、「すべての関わり」という場合には、精神とか物質とかの区分はできない。

「精神/物質」以前の関わりの世界・不可知の世界にあって、関わりの連鎖、拡大、縮小、さまざまな動きがあって、そこから私たちが自覚できるすべてのものが生み出されている。

その不可知の世界に支えられた自覚できる世界は混沌であるのだが、そこに生きていく中で人間としての秩序をつけていこうとする創造的な営みがある。

そこから世界も、物質も、精神も、理性も、感情も、意志も、あることとされ、創造、構成されてきた。

しかし、不可知の世界では、変化のなかで、関わりが変化して、動きが変化して、この秩序づけたはずの意識できる世界もまた、変化にさらされる。

その動きもまた、自覚できる感覚、痛み、感情、気づきなどとして、表出される。

過去に秩序づけたもので、現在を生きようとして、そこにエラーがでて、さらにその表現を受け止めて、シュミレーションして、さらにエラーをさぐっていくという、破壊と創造がつづいていく。

そうやって、不可知の世界での関わりの連鎖が末端の意識できる、主体性の世界として、消費されて、一応の終わりがあるかにみえて、次に進んでいく。

そうなると、生と死もまた、そうやって、人間が創り出したものであって、関わりの連鎖の当たり前の動きのなかでは、とりわけ、意識してラベリングするようなものでもない。

しかし、人間のライフとは、こうして、関わりの連鎖があるなかの一定の層をしめているもので、それが表層的であるとしても、それが人間だというしかない。

人間としての生を全うするという問いのなかで、この記事は活用されるべきものなので、今の生き方をどのように改定すればよいかと問うしかない。

予測、シュミレーションは無自覚に起きている、信念とは、その予測の枠組みであって、願望世界にひびをいれる不快な現実とは、予測に対するエラーをうまく表現しているということだ。

しかし、この表層の動きは、結局、大きな無自覚の関係性の調和という大目的のなかで起きているので、大きな調和を目指すことで、「結果としてエラーが消える」ことが大切だ。

不快、痛み、感情、悩みは、そのエラーを表現しているので、この非常用ブザーを消すような操作に意味はない。身体に気をつけよというのではなくて、無の関係性に気をつけよということだ。

つづく。