ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

知ったうえで使い分ける。

不可知の世界の関係性のゆえに、何かが変われば何かが変わる、その統一的な連続性こそ、変化こそが真理であって、そのなかで安定や調和、秩序を生み出そうとする営みが生命であるといってもよいだろう。

だから、生命のありよう、生き物はそれぞれ、自分なりの秩序を生み出そうとするのだが、それこそがその生き物の本質でもある。

そうやって、たくさんの生命がそれぞれのありようで生きていることが、さらに大きな調和を生み出してもいるが、それもまた不可知の世界の関わりのなか、変化の海のうえにうかんだ、かりそめの秩序である。

人間も、基盤となる不可知の世界の関係性のなか、変化という常態のなかで、生を刻もうとするのだが、それは人間独自のやり方にならざるをえない。

この変化という基盤のうえに積み上げられた生命としての人間は独自の変化を秩序だてようとして、予測し、シュミレーションをして、次なる変化にむきあっていくが、そこには、予測に固執する極端と、そのエラーに執着して予測を変えていこうとする極端、さらには、予測と確認の作業から離脱して、シュミレーション世界が閉じている極端などがあるが、それらが、バランスをとろうとしているのが人間のありようである。

つまり、経験、過去から、神経ネットワーク、脳内伝達物質がいろなす、脚本を描きつつ、それは信念体系、予測の枠となり、体験を構築していく。過去が現在を創り出し、未来とはシュミレーションとして無自覚に存在する。

現時点での目標や自覚した未来予測は、そのように現在に創造したものにすぎず、別の意味をもっている。

シュミレーションは、無自覚である。

このような人間の生き方を、心と体、思考・感情・意志として、あるいは、個人と社会、自分と他者、様々な枠組みで納得し、説明することしかできないが、これらもまた、自覚できる説明のための創造、構築物に過ぎない。

そして、ライフ、生命、生活、人生という枠組みもまた、これらに優越するものでもなく、説明方法のひとつにすぎない。

よって、これらの説明方法は、何のために、どのように使うか、によって正当化されるものであって、どちらが真実、正しいかという問いは無意味である。

このような立場は、相対論、立場によって、どれも正しいということと誤認されやすいが、そうではない。

不可知の真実はあるにはあるが、それは人間には把握も、説明もできないということで、あとは、必要によって、認識によって構成した現実をもちだして、なにかを説明しているということになる。

だから、〇〇は、あなたにとっては正しいのですね、ではなくて、あるいは、〇〇はわたしにとってはあなたに理解されなくても、正しいのです、ということも間違っている。

ここに正しさという概念を持ち出す意味を問うのみである。

よって、あなたは、なにゆえに、そのように現実をみて、問いをたて、それを正しいのするのか。それによって、何をなそうとしているのか、そう思わざるを得ない必然性はどこにあるのか。

あいての生命としての独自性を知る手がかりになるだけだ。

社会生活で、よりよく生きようとする際の学びの在り方もまた、このような基礎のうえに立たないといけない。

だから、現実をそのように理解して、そのような手段で思考することによって、何をなそうとしているのか、そのような生命のありようは何を表現して、何をもたらすのか。

それをよく理解したうえで、使いこなす人財を育てていく必要がある。

タイムマネジメントでは、現実をどのようにみて、どのようなシュミレーションをして、どのように思考、感情、意志、行動を表現していくのか。

つまり、主体性の展開を問うことになる。

ロジカルシンキングでは、現実をどのようにみて、どのようなシュミレーションを4して、どのように思考、感情、意志、行動を表現していくのか。

ここに組織的な視点が入ってきて、人間関係という自分と他者の関係がはいっていて、

さらに、ストレス対処、レジリエンス、コミュニケーション、先読み・・

これらは、単体のスキルとしてみるのではなくて、職業領域で構築していく、シュミレーションパターン、思考パターンの育成法として、とらえたほうがよい。

経験から自分をつくっていく、スキルと呼ぶが内実は、生き方であり、秩序づけの方向性である。

こうして、人間学としては、ハウツーをこえて、スキルを内面化して、生き方のレベルまで彫り込んでいくさいの、領域の構築が社員教育だろう。

つづく。