ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

自己性と他者性の運動

ライフストレス研究では、「人間」にとってのストレス発生の機序を明らかにして、ストレスを栄養してよりよい人生を送ることができるような新しい暮らし方の提案をしていくことが、ひとつの目標である。

その意味では、発生したストレスへの対処や蓄積したストレスの解消というテーマを含みつつも、そのもっと奥にある「人間の在り方」への考察を進めていこうとしている。

自分が暮らしている世界は、自己性という角度から見れば、自分が主体的に生きるための三次元シュミレーション時空であって、望ましいもの、望まないものが明らかになるようなバイアスがかけてあり、「願望世界」といってもよいような主観的な性質を持っている。

しかし、行き過ぎた願望によって現実を捻じ曲げすぎると、むしろ、生存には役立たないので、そこには、独善、ひとりよがりにならないように、客観性、他者性もまた埋め込まれている。

人間は群れで暮らす生き物なので、自分の行動を予測してよい結果を得ようとするが、その際に、他者、他者の集まりがどのように判断するかという規範的なチェックをかけるようになっている。

その意味では、人間が暮らしている世界は、三次元シュミレーション世界であるだけでなく、自己性と他者性のバランスをとるための装置にもなっている。

ストレスは、この自己性と他者性のアンバランスによって起きている。

自己性が強まっていき、願望世界に閉じ込められると、思い通りにならない出来事や、他者の言動が、世界のなかでの「異物」として自覚される。

それを問題として意識して、目標を見出して、適応的に処理するか、代替的に処理するか、その対応が人生であるともいえるが、それがうまくいかないと、自己の世界内秩序を守るために、自我防衛機制といわれるような、問題自体、目標自体が成立しないようにさらにバイアスをかけていくことになる。

しかし、今度は、他者性が強まって、他者のまなざしの恐怖におそわれて、すべてを他者がどう思うかと考えて行動するようになると、自己性が失われてしまう。前の自己性の強まりが、不平、不満のストレスだとすれば、この他者性の強まりによるストレスは、虚無、自己喪失、自己否定的なものだといえる。

この世界が自己性と他者性でできているとすれば、その創造者としての自己や他者は、この世界内にはいない。

その背後にあって、この世界をつくっている。

では、この世界内の「自己」と「他者」とは何者なのか。

いや、この世界が「自己」と「他者」という成分でできているといったほうがいいかもしれない。

だから、この世界は、自己でもあり、他者でもある。

他者のまなざしによって、自分をふくめた生活を評価しているとき、自分を含めたこの生活が他者である。

自己のまなざしによって、他者をふくめた他者の生活を評価しているとき、それは自己である。

このような書き方をすると、その「他者」は自分が予想したものだから、結局、自己ではないのですかと問うてくる人がいる。

しかし、その人は自己と他者の意味を誤解している。

ここに、Aさんと、Bさんがいて、Aさんの世界において、Aさんのまなざしでみると自己になり、Aさんが予想するBさんのまなざしでみると他者になる。

Bさんの世界で、Bさんのまなざしで見るのは自己であり、そこでAさんのまなざしを予想してみるのが他者である。

誤解する人は、Bさんの世界でのBさんのまなざしが、Aさんの世界でのBさんという他者だと主張している。

ここには、共通の物質世界があって、その世界内にAさんの肉体、Bさんの肉体があって、その脳のなかに心があると考えているから、そうなるのではないか。

自己も他者もなく、Aさんの心、Bさんの心という、絶対的なものがあると考えているのではないか。

しかし、そうなると、他者の心は、完全にブラックボックスのなかになる。

Aさんの世界、Bさんの世界が平行的に重なっていても、見えないことは確かだが、自己性、他者性とは、それぞれの世界内での成分として想定しないわけにはいかない。

人ではなくて、「人間」と呼ばれているゆえんがここにある。

認知理論が好きな方は、いろいろいっても、すべて、自分の認識であり、自分がつくっているのだというだろう。

しかし、その場合の自分とは何か。

それは不可知の世界、存在の根源、大きな生命、大きな物語、精神の故郷にいる自分であって、世界内では、「自己」と「他者」にわかれて、創造活動をしているのだと考える。

日本の神話でも、根源の神から、男女神が出て、二人で国を生んでいく。つまり、世界を創造していくように。