他者性と固定。自己性と変化。
この世界は、精神の故郷にある「分霊」がつくっていると書いた。
しかし、その創造活動は、「自己性」と「他者性」の共同作業であるとも。
世界をどのようにみるかという指向性と、自分を含めた世界がどのようにみられているかという指向性のゆらぎがあると書いた。
この見るもの、見られるものという指向性は、ゆらぎながら、積み重なったいく。
たとえば、地のなかに、図として指示されたものは、言語のラベルが付されて、教育のなかで、他者から見られているものとして立ち現れるが、今度はそれを自分が見るものとしてモデリングによって取り込んでいく。
見られているものを見るものとして成立させることが世界内の創造だといってもよい。
逆に自分が見ているものを、他者の世界内では、「見られているもの」として受け入れて、それを見るものとして創造しているともいえる。
俗に、「共同幻想」とよぶことがあるが、共通の文化的土壌は、このようにして、見られているものを見るものにする作用として理解できる。・
他者は、ほかの他者から見られているものとして立ち現れるが、それを見るものとして扱うことで出現する。
物質も、このようにして他者から見られているものを、自分が見るものとすることで成立している。
自分に見えたものも、他者から見られたものにならないと、それは幻覚であって、事実としては創造されない。
この世界の事物は、他者から見られたものとして成立しているので、自分という個体もまた、他者からのまなざしによって成立している。
他者性、自分がいないこと、客観性によってできた世界は、物質化、固定化、普遍化といったものになり、本当の自分がいなくなる。
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いまだ、論理に混乱があるが、メモとしてここまで、まとめておきます。