分割という刃物
この世界は分霊としての自己が生み出したという意味では一つであり、それはすべてを精神だと言ってもよい。(ただ、物質に対しての精神という意味ではなくて、根源的創造作用とでもいうべき意味である)
しかし、このままでは、すべてが混とんであって、そこには自分も他者もおらず、物質も精神もない。
社会のなかに生まれこむことで、ひとは人間になると言われているが、赤ちゃんのときに、大人たちから繰り返し、この世界の分割のルールを教え込まれる。
言葉とは、分割の道具であるといってもよい。分割のための刃物である。
すべてが混とんとした「地」であったところに、言葉を付した「図」を切り抜いていく。
正確には、三次元的に、くりぬいていく。
そこに、物質が生まれる。図としてくりぬいたものが増えていき、溢れていき、それが自分の世界を埋め尽くしていくころには、混とんとした「地」は見えなくなっている。
本当は、それらの切り抜いたもの、分かったものを包むようにして、不可知の世界として混とんは広がっているのだが、大海原に浮かんでいる「島」のまわりに霧がかかっているように、島の内部だけが世界になって、それを包む世界はないことになってしまう。
全体として一つであったはずの世界は、こまごまと分割されたものになり、それらが、めまぐるしく運動するように見えてくる。そこに時間が生まれてくる。
そして、過去、現在、未来という観念もうまれて、先に臨む結果を得ようとする自分の願いによって、この世界にはバイアスがかかり、願望によって色づけされていく。
問題は、ここでの「自分」と「他者」であるが、肉体として独立して動くので、別物として認識することができる。さらには、その言動から、相手の「心」を想定して次を予想することもできるようになる。
つまり、シュミレーション世界では、高いところの石がすべて転がってくるというような物理的法則による予想と、相手の「心」を想定して行動を予想する方法が、組み合わさっている。
ここで、元に話を戻すと、すべては背後の世界の根源的自己の創造作用として、この世界があったので、これらの自分、他者、物、心というものも、この世界を分割したものに過ぎないことを思い出してほしい。
ここから導きだされる「暮らし方」とはどういったものだろうか。
生命、生活、人生を創造していくためには、どうしたらよいのだろうか。
もし、世界内で切りだした「自分」の生命、生活、人生をよきものにしようと考えて生きるのであれば、自己の保存、発達、競争での勝利、成功などを目指すのではないだろうか。
そして、それがうまくいけば幸福で、それが阻害されることが苦でありストレスということになるだろうか。
そうなると、解決法とは、この課題、問題を乗りこえる力を得ること、様々な能力ということになるだろうか。
実は、こうして、四苦八苦の世界もまた生まれる。
四苦八苦(しくはっく)とは、仏教における苦の分類。
生…生まれること。
老…老いていくこと。体力、気力など全てが衰退していき自由が利かなくなる。
病…様々な病気があり、痛みや苦しみに悩まされる。
死…死ぬことへの恐怖、その先の不安。
愛別離苦(あいべつりく) … 愛する者と別離すること
怨憎会苦(おんぞうえく) … 怨み憎んでいる者に会うこと
求不得苦(ぐふとくく) … 求める物が得られないこと
五蘊盛苦(ごうんじょうく) … 五蘊(人間の肉体と精神)が思うがままにならないこと
の四つの苦を合わせて八苦と呼ぶ。
現代のストレス問題もまた、仏教の四苦八苦の問題意識につながるところが多いと私は考えている。
従って、この問題が、分割によって図で埋め尽くしたことで、生まれたとするならば、もとの、ひとつの世界としての見え方に戻っていく必要があるのではないかということだ。
島のまわりの霧を晴らして大海原に包まれている世界に立ち戻ることだと考えている。
スピリチャルとは、迷信のことではなくて、この島の外の不可知の世界から、この島を見つめなおすことだと思っている。
そうしたとき、この世界内の「自分」のために暮らしていくということが歪みであることに気づいていく。
この不思議な世界は、すべてが根源的自己としての私が生み出したものであって、この世界をよきものにしていこうということが本当の願いであること。(本願)
そのために、世界内の「自分」を動かしていくこと。
他者に見えるもの、他物にみえるものも、すべて、同じ精神の産物であるいとおしいものであること。
このような視点の転換。世界内の自分から、世界の背後の自分へと。
逆に、世界の背後の自分から、世界内の自分へと。
このような移動を繰り返しながら、バランスをとっていくことが肝要だと書いてきた。
では、この世界での「他者」とは自分であり、「他物」も自分であり、すべてが自分のライフであり、すべてが登場者、配役であるとするならが、自分は「監督」として、自分の世界を見守りながら、配役の一人としての自分もまた適切に動いていくことになる。
では、この世界が変化して動いているのは、なぜなのか。
それこそ、この世界の背後の根源の世界での営みの現れである。
科学は、それには考慮をはらわずに、この動きを分析して仮説としての法則を立てる。
しかし、物が勝手に動いて、そこに、たまたま、ルールが見つかったということではないはずだ。
この世界を動かしている背後の世界の力があって、それが現れたということだろう。
東洋では、そのような天地自然の動きから、この世界の「精神」をよみとって、それを人間が実現していくことを目指していた。
この世界をどのようなものにすればよいのか、自分はどのような努力をすればよいのか。
その答えは、この「世界」という表現の背後の精神を読み取るしかないというのだ。
仏教で、すべての衆生は、仏になれるという表現があるが、仏とは、自分の世界の構成・創造者として、この世界に込められている精神を読み解いて、それに基づいて生きるものだと思う。
それぞれの自分の世界で、仏になるということだと思う。
すると、私の世界に来訪されている「他者」は、いまだ、私の自己保存的シュミレーションの観方では対立する者であるが、その方の世界にあっては、仏になることを待たれている存在である。
この仏であるはずのものが、悪鬼のように見えるのは、二重の歪みがある。
ひとつは、その方がいまだ、自分の世界で自己保存的シュミレーションで生きていること。
もうひとつは、私が、いまだ、自分の世界で、自己保存的シュミレーションで生きていること。
お互いに、それぞれの「世界」に表現されている背後の大きな精神を見出しておらず、島のなかで四苦八苦に苦しんていること。
あるいは、自分が目覚めることができれば、相手が自己保存的な立ち位置であっても、もはや、自分の悩みにはならないかもしれない。
自分の世界のなかでの大切な登場人物の一人として愛情をもって見れるのではないか。
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こうして、整理してみると、自己と他者、分割と統合、表現と根源などの切り口で模索してきたが、この全体の記事で重要なのは、この世界に表現されている精神を読み取って、それを身に着けて生きるということに思えてきた。
それがあれば、シュミレーション時空であっても、生き方が異なってくるのか。
その精神を受け入れることを阻害する限りにおいて、自己他者問題、分割統合問題、物質精神問題が立ち現れてくる。
そうなると、このところの考察は、この世界に込められた精神を見えなくするもの、受け入れを拒むもの、破壊するものを見出して、対策を立てていたことになる。
主体性の向上もまた、この手段に過ぎない。
では、この世界に込めらた精神とはどのようなものだろうか。
対人援助では、個人の健康、幸福、適応、発達などをめあてに進めてきたが、そこにもズレがあったのだろうか。
どのように生きればよいかという問いがゆがんでいたということを、ここまで難しく書いてきたのだろうか。