仏教的煩瑣哲学
最近の自分の記事を読み返してみると、言葉でこの不思議な世界のことを書き切ろうとして、どんどん、混乱をもたらし、煩瑣になってきている。
ちょうど、仏教が長い歴史のなかで、どんどん、煩瑣哲学のようになっていったように。
そして、現場や暮らしから離れてしまう。
どうして、このような事態になるのだろうか。
あるいは、どうしたら、このような問題を乗り越えられるのだろうか。
シンプルな表現で使えるものは生み出せないのだろうか。
ライフストレス研究で大切なのは、暮らしで生かせるものをつくること。
現場での壁をうちやぶる装置をつくること。
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もっと、問題を小さくしよう。
問いをしっかりと立てよう。
ライフ、生命、生活、人生を豊かに育てていくというテーマにおいて、主体性を伸ばすアプローチを展開してきていた。
しかし、そこには常に他者から見られている自分、自分がみた他者という、自分と他者の問題があって、主体性をそこで貫くことの困難があった。
また、モチベーションの低下、生きる意味の喪失、生き辛さなど、そもそも、主体性を伸ばしていくエネルギーをどこからくみ出していくかというテーマもあった。
さらには、心理学的仮説によって、過去によって規定された自分というものを抱えて、「自分を変える」という問いに向き合っているものが多かった。
他者を変える、自分を変える、やる気を出す、といった切り口の弊害を思い知った。
この世界をみつめている自己が、この世界全体を観るのではなくて、相手をみて、自分をみて、それを変えようとエネルギーを使っている姿に疑問をもった。
このエネルギーの発掘のために、不可知の世界に注目した。
この世界の創造者である根源的自己に注目した。
この世界に注がれている背後の世界の精神的パワーに注目した。
そうなると、自分も他者も、分割された自己であり、世界すべてが自分だと自覚できるようになる。
これは、ある意味、スピリチャルの世界の導入であるが、迷信の排除でもある。
科学的な見方の延長で、不可知の精神の世界を導入、接ぎ木したものだ。
インドラの網のように、結び目のついた多数の宝珠が、それぞれの世界で、すべてを映しあっている。
自分の世界をよきものにすることが、自分を映してくれた相手の世界をもよきものにしてくれる。
この接ぎ木をシンプルに、スマートにできないものだろうか。
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日常のシュミレーション世界での心の使いかたでは、自分の行動をきめていければよいのである。
だから、物の動きも予測して、相手の動きも予測する。結果をうけて修正していく。
しかし、人生としての心の使い方は、また別である。
その場合には、すべてが自己の現れであり、不可知の世界の精神の現れであると考えよう。
この世界は、自分と他者と分離した「自己」でできていると考えよう。