ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

日常の世界と悩みの世界

ライフ(生命・生活・人生)の創造は出来事の展開として進んでいる。

そしてそれは刻々の行動(認知含む)の主体的選択による。

ライフ創造が停滞するのは、固定された繰り返しの選択によって、様々な不調和が生じて拡大していくときだ。

とりわけ、自分なりの善意の行動が相手に通じず裏切らる体験や、いくら努力しても成果が出ない体験、相手から利用されて知らぬ間に望まない状況へと陥れられる体験など。

個人心理的人間観の世界でいえば、欲求不満、葛藤を生じることになり、先の予測が悲観的なものになり、主体的に責任をもって行動選択をしていく勇気をなくしていく。

ここでは、加害者と被害者の図式が入ってきて、自分自身も緊張し防衛的・攻撃的になり、他者への不信感が増大していく。

それが拡大していくと、この社会や世界に対する不信感となり、自分の居場所がないという疎外感に進んでいく。

これは、悩みとしてみれば、かなり辛い状況であって、生得的な人間の傾向を傷つけることになる。個人としては快・満足をもとめ感情豊かに生きたいこと、つまり、生理的な安定や安全、さらには対人間では仲間とつながり役立ちながら暮らしていきたいと。

それゆえに、この悩みは、心身のストレスとなり、生活習慣病精神疾患への移行してしまうことになる。

このようなときに、従来のカウンセリング的援助では、個別世界的人間観に立って、その方にとっての世界の見え方、そこでの苦しみに焦点を当てて傾聴していくことになる。

また、援助を受けない場合でも、普通、人間はこの自分なりの世界の見え方のなかで過去を振り返り、未来を予想し、この人生が価値あるものなのか、これから先、生きるに値するのか、苦悩することになり、出口を探そうとする。

しかし、この姿は「悩みの世界」に飛び込んで「悩み」から抜け出そうというような矛盾に満ちた方法でもある。

そこで、さらにこの世界を生み出している信念体系、価値観に介入して、この悩みの世界が変質して「生きるに値するもの」へと移行させようとする。

ただ、考えてほしいのは、この「個別世界的人間観」では、同じように暮らしていても、それぞれが別の世界を観ているということは、そこでの他者とはその人の登場人物にすぎす、その人が思うようにしか見えない存在である。

つまり、悩みの世界では他者が動いても悩みに飲み込まれているということだ。それでよい影響を与えることは非常に難しい。

あるいは、悩みの世界では自分が動いても悩みに飲み込まれているので、その世界を変えるような影響を与えることは難しいということでもある。

だから、カウンセラーは、この世界を鏡のように見えるように対話をしており、本人に気づきを促しているが、救っているわけではない。これがカウンセリングを受けるときの相談者の孤独感である。

ここで考えないといけないのは、もともと、ライフ創造をしていたということ。そのためには刻々の行動選択を適切にしていくこと。葛藤や不満によって行動選択を主体的に選べなくなったので、悩みの世界が開いたということ。

そして、悩みの世界が開いて、そのなかで行動選択をしていくから、ライフがさらに停滞していくこと。

このような事情から、「認知行動療法」というスタイルで、日常生活の認知と行動を適切に変えていくアプローチがとられるようになって効果をあげている。

(その場合、この悩みの世界についての扱いは保留される)

私は、このように問いを立ててみたい。どうして、日常的な「個人心理的人間観」が破れて「個別世界的人間観」が開いているのか。

そして、その個別世界はなぜゆがんだものになっているのか。

どうしたら、刻々の行動選択に向き合っていく「個人心理的人間観」の世界に戻っていけるのか。