ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

悩みと行動選択

日常の受容できない体験を受容しようと努力しているときに、他者にそれを話す場合がある。

その他者が加害者、被害者の図式で問題の深刻さについて共感して、それに乗ってしまって自分も話してしまうことがある。

感謝というより、評論家的な相手に腹が立つ場合もある。さして、せっかく受容しようとしていたのに、自分もひどい目にあっているように感じて受容の努力を放棄することになる。

すると、苦悩が襲ってきて、背後の個別世界が開いて、過去の事例を思い出し、未来を予想して、人生の苦悩として、そのきっかけとなった出来事の汚染が拡大していく。

これは、「受容」の苦しみをしたくないというモードにスイッチが入った状態だ。

この他者は助けているようでいて、この人を無力な防衛的な人間へと変えてしまっている。

受容できないながらに、しようとして努力している姿をありのままに共感してあげればよかったのにと思う。

なぜ、それを他者はしないのか。そのような受容の取り組みを自分もしていないからだ。

出来事がライフ(生命・生活・人生)であり、その創造活動に向き合うということは、目の前の出来事をそのまま受け止め、受け入れることだ。

本来、出来事は人間にとって不可知の部分が多く、不思議なものであると知らなければならない。それを自分の狭い体験や知識から良い悪いを判断して、受け入れをしないという姿勢ではライフの創造はできない。

出来事を踏まえて、行動(認知含む)を選択していくと、次の出来事に出会っていく。

出来事を自分の個別世界で勝手に解釈して拒否するのは、願望世界の奴隷になっているということだ。

起きたこと、目の前の出来事は意味があって、必然、必要、最良のものとして出現している。人間に許されるのは、それを素直に受けいれて、次の行動を選択することだ。

ここには、背後の個別世界が悩みの世界として開く余地はない。しかし、私たち人間は苦悩のなかで、ときに受容や選択に背をむけることがある。

それは個別世界の修正のためでもある。固定した不適切、不自然な願望に気づき、個別世界が豊かなものになり、それを反映した日々の個人心理的人間観の選択がよきものになるように。

その意味では、この「悩みの世界に閉じ込められる」ことでさえ、受容することが大切だ。

受容すれば、次の選択に移れる。受容しなければ、問い続け、考え続け、振り返り、予想して、動けなくなり、新しい選択ができなくなる。

結局、「主体的人間観」にいうように、出来事は一つであるが、それをどのように見るかの人間観はいくつもある。そして、それを選び、使いこなし、さらには、そのなかでの選択も自分が決めている。

自分で決めているのだから、自分で動かせる。動かないのは理由があって動かさないことを選択しているからだ。

こうして、すべてが自由だと言われるとどう選んでいいのか分からなくなるが、一方で私たちは従来の選択による経験を積み重ねていてそれを無駄にしないように同じ選択を繰り返す存在でもある。

固定と変化の間をゆらぎながら、受容と抵抗(防衛)の間をゆれながら、出来事に向き合っている。

もちろん、主体性を重視する考え方と、不可知の世界からの導きを重視する考え方もある。自力と他力。

こうして、「思索」は、日常を離れて、答えを探そうとしてさまようが、前の前の出来事とそれを踏まえた行動(認知含む)が人生であるというところに戻っていくしかない。