ライフストレス研究所だより

長年の経験を活かしてライフストレスケアという次世代の人間学を紹介しています。

受容の意思

目の前の体験の受容とは、見たくないもの、言われたくないこと、したくないこと、それを「楽なこと」「苦しくないこと」に変換するような方法ではない。

出来事には自分が含まれており、その意味では自分との関係性の塊であり、自分が抱く感情も当然出来事の一部分である。

だから辛い出来事に際して辛いと思うことは自然であり、それを「楽しい」「意味がある」「大丈夫」と言い聞かせることも一つの選択ではあるが、それは「出来事」自体を変節させることでもあるから、もともとの出来事に出会ったわけではない。

このようなやり方のはてに、とうとう出来事の変換もできず、受容もできないという場合に、背後の個別世界が開いて人生や世界の見方まで変わってしまい悩みの世界に入っていくことになる。

これは、自分を守るための選択であり、非難されるものではないが、実際の日常のライフ選択はゆがんでいくし、不快な出来事の受容はますますできなくなる。

目の前の出来事を受容するときに不快な感情に耐えるとするならば、自分の感情を抑えているようで不自然だと思うかもしれない。でも、この感情は悩みの個別世界が開かない限りそれほど大きいものではない。

私たちは受容できない体験を前にして、日常の感情を超えて、個別世界に入り込んで感情の増幅をしている存在である。

しかし、主体的選択とは、生得的な傾向に任せたり、感情にまかせるのではなくて、それらを踏まえつつも、自分で行動を選んでいこうとする意思の働きである。

この主体性を育て、意思の働きを育てないと、結局、防衛的になり不快な感情を味わいたくないということから、受容を拒否して悩みの世界が開いていくだろう。

逆説的になるが、受容できないことが問題のように見えて、一方では、主体性の低下、訓練不足が問題でもあると思う。

快不快、損得、意味付けなどで、選択をしていくときに、不快で、損で、無意味に思える体験をどうやって受容して次の行動が選べるだろうか。

ライフ創造の原動力としての主体性がうまく育っていないことが問題なのだろうと思う。

では、宗教的、哲学的バックボーンがあれば、この主体的選択、受容の力が高まるのだろうか。

それは逆であって、今度は理不尽な受け入れがたい体験を前にして宗教的、哲学的信念を保つことの努力を求められることになるだろう。

複雑で不確定で不可知の世界を特定の理論や物語で解き明かすことはできない。科学とて限界を持っている。それが明らかになればすべてを受容でき主体的に選択できるのにという考えは夢想に過ぎない。

逆に主体的選択を繰り返すことで、宗教的、哲学的、科学的信念が強まっていくものだと考える。

では、主体性を強めていくにはどうしたらよいのか。

その答えも日常にしかない。迷い、揺れて、とどまっても、また動き出し、選びなおすしかない。

では、なぜ、私たちは選ぶのか。それは刻々と出来事が目の間にやってきて選ぶしかないからだ。選ばないといっても、動かないということ、立ち止まるということを選んでいる。

何をやっても「選んでいる」ことになる世界において、では、せめて、自覚をもって主体的に選ぼうということだ。

なぜ、生きるのか、人生に何の意味があるのか、人間とはなにか・・この世界はどうやってできている・・

このような問いを発することも自由ではあるが、それでも自分のまえに刻々と出来事が姿を現して、自覚しようがしまいが、私たちは選んでいる。

こうやって、ライフが創造されているのならば、私たちは自分なりに選んでいこうとするのではないか。

私はこれは「賭け」のようなものだと思っている。思いどおりの結果になるから選ぶのではない。思い通りになったとしてもそれが良い出来事かどうかも分からないし、思い通りでない苦しい出来事だったとしても、それが悪い出来事かもわからない。

ライフに賭け続ける。それが生きるということだ。そのために必要なのはよく見ること、よく考えること、そして責任を負う覚悟と勇気。そして、そんな自分に微笑むことのできるユーモア。

メンタルヘルスコンサルタントという職業は、そのような主体性ライフ創造のお手伝いである。